致良知(りょうちをいたす)の持ち主 | 龍馬と夢紀行

致良知(りょうちをいたす)の持ち主

「峠 最後のサムライ」を鑑賞してきました。

 

自宅近くのシネコンで観てきたのですが、

朝10時からの上演に合わせて出かけてみると長蛇の列。

唖然呆然としながら20分を要してチケットを購入。

こんなに時間を要したのは本当に久しぶりでした。

 

一緒に出かけた家内は、

「かわいつぎのすけ、って誰?」といわんばかりに、

早々と「峠」の鑑賞を放棄して「トップガン」を選択。

ほぼ同じ上演時間ということで別の映画の鑑賞と相成りました。

 

さて「峠 最後のサムライ」は、

将軍徳川慶喜の大政奉還から北越戦争までの10ヶ月を描いた作品。

さすがにこの激動の10ヶ月だけで継之助を描こうとすると、

巷間に伝えられるエピソードをトレースするだけで終わってしまいます。

 

映画の中の河井邸にも掲げられていた「常在戦場」の扁額。

長岡藩は、この言葉を藩風・藩訓としていたのですが、

いつも戦場にいる気持ちで事に当たれという(武士の)心得の言葉。

その精神は藩校・崇徳館の教育で結実し、長岡人の血肉となったとされます。

でもそんなところだけで継之助を語るのも勿体無い。

 

継之助の政事は、

映画内でも描かれた「民は国の本 吏は民の雇」であらわされるように、

民衆あっての国であり、役人は民衆のために働くのもであるとの考え。

いわば庶民ファーストというべきもの。

それが「我が藩境をおかし、農事を妨げる者は真の官軍にあらず」の言葉に通ず。

 

江戸をはじめとする諸国を遊学して培ったグローバルな視点で、

常に領民のためを前提に藩政改革を断行していった継之助。

備中の山田方谷から陽明学の深奥を学んだ継之助は、

〝サムライ精神〟よりも〝致良知の精神〟の持ち主であり、

そんなところも回想を交えて多く描いて欲しかった。

 

またこんな話がある。

若き日の継之助は大の遊廓遊び好きだったが、

家老になると旧弊の源であると遊廓の廃止を断行する改革を。

すると、それを皮肉った一首の落首があった。

「河井かわいと今朝までおもい 今は愛想も継之助」と。

 

聖人君子のような振る舞いばかりではなく、

また高潔で理想的な人物でないかもしれないが、人間味豊かな人物です。