今日は京都の舞鶴へ | 龍馬と夢紀行

今日は京都の舞鶴へ

名古屋から北陸道を経て舞鶴若狭道で約2時間半。

今日は京都府の舞鶴市に出かけてきました。

 

舞鶴は第二次世界大戦後に引き揚げ港に指定され、

岸壁に立ち息子の帰還を待つ母のことを歌った「岸壁の母」が有名。

そして歴史に絡めれば、

やはり細川幽斎が築城した田辺城なども知られています。

 

ご存知のない方もいらっしゃるかと思いますが、

この田辺城では関ヶ原合戦の前哨戦が行われました。

関ヶ原の戦いの二ヶ月前の慶長5年(1600)の7月、

家康の東軍についた細川忠興が上杉討伐の会津攻めに赴くと、

隠居の父・幽斎が留守居をしていた田辺城に対して、

大坂で蜂起した西軍は、伏見城攻めと並行して、

西軍の福知山城主・小野木重次らが襲来して田辺城をとり囲みます。

西軍についた福知山城主・小野木重次らが襲来して城を包囲。

 

ところがこの時期の細川家といえば、

忠興率いる本隊3000ほどが関ヶ原の地に赴き、

豊後国・杵築城では1000の兵を投入して戦うなど、

自軍の兵を4つの戦場で割り振る状況であったのです。

 

ですから幽斎が守る田辺城の手勢はわずか500人ほど。

多勢に無勢で如何ともしがたい細川軍でしたが、

幽斎は田辺城での籠城を決め込み東軍を迎え撃ちます。

 

しかし、戦いとは別局面の展開が控えていました。

幽斎は文芸界トップに立つ「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者。

幽斎が亡くなれば古今伝授の廃絶を意味します。

 

そのことを憂慮した後陽成天皇は、

すぐさま田辺城を囲む西軍の陣に勅使を送り和解を画策します。

天皇の意向を知った西軍の諸将は大いに驚き、

こうなるとさすがの西軍も田辺城の包囲を解かざるを得ません。

 

こうして生きるか死ぬかの戦いに、

「文化」が奇跡の局面をもたらすことになりました。

舞鶴ではそんな田辺城を皮切りに、

「近畿百景」第一位選出の絶景が堪能できる五老スカイタワー。

さらに赤煉瓦パークと赤れんが博物館、舞鶴引揚記念館。

昼食は地元の人気和食店に。

11時開店前に並び二番乗りで入店できたからよかったものの、

11時15分には全席満席となり人気の証左を見せつけられました。

加えて小浜市の福井県立若狭歴史博物館にも。

盛り沢山な一日となりました。