みなさん、こんにちは。とうしんです。
春爛漫の気持ち良い毎日ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
さてと『ブログ自分教ガイド』と昨年スタートしたYouTube『チャンネル自分教ガイド』・・・今年から更新頻度を上げたいと思いつつも、普段の研究活動に意識が取られてしまうとなかなかアウトプットモードに移行できず、更新がおろそかになっています。稀少なファンの方々、何とぞ気長にお待ちください。
いま私はベルクソンの『物質と記憶』を徹底研究しています。今年はおそらくこの研究を軸として、定例の関西ヌース勉強会や武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所の発表をやっていくことになると思います。
なぜ今ベルクソンなのか。それは今年に入って急激に世間を騒がせているChatGPTの出現が主な理由です。
対話型人工知能ChatGPTの出現により、いま社会に激震が走っています。「近い将来、ホワイトカラーの9割の仕事を奪うことになるだろう」などと言われています。
あのイーロン・マスクも今年の4月5日、AI開発に反対の立場を表明しているとロイターが報じました。
同記事によると彼は「行きすぎた人工知能(AI)の開発は危険」「社会への潜在的なリスクがある」と主張し、開発を今後6ヶ月間は一時中断するよう求めている、とのことです。
そもそもイーロン・マスクは2014年11月の時点で既に以下のような発言をして警鐘をならしていました。
「人工知能にはかなり慎重に取り組む必要がある。結果的に悪魔を呼び出していることになるからだ。ペンタグラムと聖水を手にした少年が悪魔に立ち向かう話をご存知だろう。少年は必ず悪魔を支配できると思っているが、結局は出来はしないのだ。」
警鐘と言えば、この方の発言も有名です。ブラックホール・特異点の研究で有名な物理学者のスティーブン・ホーキング。
「完全な人工知能を開発できたら、それは人類の終焉を意味するかもしれない。」
そんなこんなで人工知能の開発は危険であると、先が見通せる頭の良い人達が人工知能開発を人類全体の利益になるように「オープン(公開)」にして、共同で安全に研究開発を進めようと非営利団体としてスタートしたのが「OpenAI Inc.(オープンAI 2015年設立)」・・・いまのChatGPTを発表した「OpenAI LP」の前身です。
そんなオープンAI社も、ChatGPT4を発表してからは「開発の肝心な内容はやはりクローズドにせざるを得ない」として、社名のオープンとは正反対のクローズドに向かいつつあります。そうなると、やがては出資者であるマイクロソフトが「危険な力」を独占してしまう・・・そのことを危惧し、先のイーロン・マスクの「開発をちょっと止めろ」という発言が出たのです。
とまぁそんな感じなのですが、ヌーソロジーの立場からすれば対話型人工知能の発展は超ウェルカムなのです。
意外に思われますか? でもヌーソロジーはそもそも「最終構成=人間の終わり」を前提として、その後にやってくる「別のもの」を志向しているのですから、それも当然です。
さらに半田さんがChatGPTと仲良く遊んでおられるから・・・いやいや、そんなことが理由ではありません。実は統心はすでに2014年の時点で「対話型人工知能の出現」が意識進化の為に必ず必要になるとレクチャーで叫んでいたのですよ。
統心が9年前に語っていた主旨は以下の様なものです。
●コンピューティング発展の歴史はざっくり3世代に分けることができる。
【第1世代】:タブレーター(大型計算機)時代。データを数えるだけの単純な計算機。
【第2世代】:プログラマブル時代。プログラムによって人間が指示を与えて動くシステム。
【第3世代】:コグニティブ時代。対話型人工知能が出現する。コンピュータ自身が自分で学習し、調整し、発展する。
●これらコンピューティングの歴史は、「人間と潜在意識(無意識)」の「関係の進化」と連動している。
【第1世代】:無意識の役割は「自律神経」として肉体を管理するなどがメイン。
【第2世代】:「思考は実現する」「引き寄せの法則」などの様に潜在意識(無意識)の活用方法が知られるようになった時代。
【第3世代】:無意識が自分のパートナーとして顕在化し、表層意識と対等の関係で二人三脚で歩み出す時代。
どうですか? いま第3世代に突入していることは明かです。今年になって突如、ChatGPTが大ブレイクしたことにも納得がいきます。なぜならヌーソロジー的には2023年は「ψ11顕在化の年」であり、統心はこれを「内側の他者との出会い」と睨んでおり、それが「人間」と「人間の反対」との出会いである・・・と解釈しているからです。
それでヌーソロジーとしては人工知能に対して、それも「強いAI」(人間が心を持つのと同じ意味で心を持つ)に対しては明確にノー(それはナイよ)と言います。半田さんも「僕はコンピュータで外面の意識を再現できるとは思いませんが・・・」(2023/04/26 tweet)と発言されています。
ヌーソロジーも私も、人工知能に対しては「弱いAI」の立場ですね。心を持つことはないが、人間にとって有用な道具であれば良い・・・という立場です。
人間がコンピュータに接するに当たって重要なことは、どちらが主体であるのかをしっかりと自覚しておくことです。コンピュータと人間の関係において、あくまでも主体となるのは人間であるということを忘れなければ、コンピュータは人間の意識進化を促進するものとして働くことでしょう。しかし、コンピュータ側を主としてしまうと付帯質の対化の関係性が反転し、精神進化を完全に失ってしまいます。 (オコツト/『2013:シリウス革命』p74)
ただこれは余談ですが、このコンピューティングの情報工学とDNA操作などの生物工学の様なものが結びついたらマジで「ヤバイ」と思っています。まったく得体の知れない「キメラ」が登場する可能性もあります。スピリチュアル的に言えばそれが「依り代」になって、何らかのエンティティが憑依して暴走する可能性もあると真剣に思っています。
そう考えるとやっぱ怖いなぁ・・・こういったテクノロジーの暴走は。
だからこそ・・・「ベルクソン」なのです。今こそベルクソン哲学が復活してこなければなりません。
ということで、以下は先日発信した関西ヌースメルマガからの抜粋となります。
今月と来月、2回に渡ってベルクソン『物質と記憶』を取り扱ってみようと思います。
なぜいまベルクソンなのか。人工知能の台頭に脅威を感じている方は是非ともご一読ください。
それではどうぞ。
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************* 転載ここから *************
◆今月の定例ヌーソロジー教室/大阪・京都◆
テーマ:物質と記憶 パート1
~ 意識を脳から脱出させよ、ベルクソンの「イマージュ」~
●今月はベルクソンの「物質と記憶」を取り上げる
言わずと知れたアンリ・ベルクソン(1859-1941フランス)の代表作である。
ベルクソンは1930年にノーベル文学賞を受賞した。フランス文化界でその哲学的業績が高く評価されていた為である。
後のフランス哲学界における重鎮、「身体の現象学」を唱えたメルロ・ポンティや、ヌーソロジーでお馴染みのドゥルーズがベルクソンの哲学に強い影響を受けたことで知られている。
「奥行き」を唱えたポンティや「差異」のドゥルーズ・・・ベルクソンに始まる思考線がヌーソロジーへとドストライクで繋がっていることがよく分かると思う。
ベルクソン哲学の骨子・・・それはずばり「持続」、そして「記憶」。
ある意味、この「持続」が分かればヌーソロジーが伝えたい内容の「根幹は完成」したと言えるだろう。
この持続が「根幹・・・根であり幹」となり、あとは「水」さえ与えればその「枝葉」は茂っていく・・・というものである。
もちろん、これはとうしんの直観ではあるが。
●ベルクソン哲学は「直観の哲学」
今年は突如思うところがあり、ベルクソンの「持続」に本格的に取り組みたくなった。
そして以前から気になっていた『物質と記憶』に真っ向から取り組もうと思った。
そして読み始めた。・・・いやはや参った。実に難しい。
調べて見ると、哲学研究者にとっても難解の部類に入る様だ。
何しろ用語が独特で、独自の直観から「創設」した哲学の為に、分析的な思考では歯が立たない。
しかしながら、何故か「周波数」が合うと、突然するすると分かり出す。
誤解を恐れず言えば、私にはヌーソロジーの土台があった為に「恐ろしいほど良く理解ができた」。
読中、何度も拳を天上に突き上げて「ベルクソ~ン!」と叫びたくなるほど、言いたいことが繊細に感じられてきた。共に感激し、共に涙した。
だがそれを改めてレジュメにしたり、まとめたり、論文にしたりするのはかなり難しそうなのだ。
要するに「右脳的」なのである。言語化が難しい。まさしく「直観」の哲学。
※これと正反対の哲学が、現代に隆盛を極めている英米系の「分析哲学」であると言えよう。そしてこの「分析哲学」こそは「人工知能」を生み出した哲学そのものである。
ベルクソンの思考は、前回の大阪ヌース教室で取り上げた「考える右脳」である「直観思考」が炸裂している。
だからたまたま波長があって理解が進んだとしても、次の瞬間にはノイズを拾って分からなくなってしまう。そうなると先ほど理解した箇所までが、陽炎の様に消えてしまうのである。
右脳理解だから、言語化へのルートがとても難しいのだ。
そんなこんなで格闘しながら、この1ヶ月で何とか「2度熟読」した。
その結果、私の中にはいま伝えたいことが溢れんばかりである。ベルクソンでいっぱい。
●生活の中に身をおくのがベルクソン哲学
ということで関西ヌーソロジー研究会では、今月と来月の2ヶ月かけてベルクソン哲学を取り扱いたいと思う。
もちろんそこは統心流。実生活の現場に定着させる様なアスペクトでベルクソンを読み解くつもりだ。
というか、それこそが「ベルクソン哲学」なのだ。
彼ほど実生活の現場、人間の素朴な直観を大事にする哲学者はいないのではないか。
『物質と記憶』・・・第七版の序において、ベルクソンはこう言っている。
「私たちが身を置くのは、哲学者同士の議論を一度も聞いたことがないような人の観点である」
そう、ベルクソンは哲学者が過去の文献を分析するような議論をしたいのではないのだ。
普通の人が普通の生活の現場で感じる「直観」をそのまま哲学しようとしているのである。
この辺り、あのクリシュナムルティを彷彿とさせる。
クリシュナムルティもまた、学者の使う様な難しい用語を決して使わず、日常の言葉を用いながら、生活の現場でひたすら「自己」を見つめ続けた、そのありのままを語ってくれる。
だからある意味、ベルクソン哲学は分かり易いのだ。
だのに難しい理由は、それが「創造性」に満ちあふれているからであろう。
要するに「今まで語られたことのないことを語り表そう」としている情熱が半端ないのだ。
その一つが「持続」である。
言葉としては簡単だ、持続。だけどこれが難しい。私も昨年、ようやく分かった。
分かってみたら・・・世界が変わってしまった。もう元の世界に戻れない。
そして、ひとたびそれが分かってしまったら、もう別人になってしまった。もう以前の私ではない。
それぐらいの強度ある哲学、それがベルクソン哲学なのだ。
そしてこの「持続」が分かった時、半田さんがすでに先んじて10年以上も叫び続けてくれていたことが分かった(笑)・・・独り、あのムンクの様に。
持続!持続~!・・・確かに半田さんは叫び続けてくれて来たけど・・・正直みんな無視していたよ。だってわかりにくいんだもん(爆)
●まずは「イマージュ」から
ということで、これから関西ヌースではじっくりとベルクソン哲学を攻略して行こう。
まずは「物質と記憶」、その主要概念となる「イマージュ」から。
ベルクソン哲学の「イマージュ」。
ベルクソンによるとイマージュとは以下の様に言われる。
「観念論者の言う表象以上であるが、実在論者の言う事物以下の存在・・・「事物」と「表象」の中間に位置づけられるような存在である」
分かり易く言えば「精神と物質」の中間のような存在であると。
そしてベルクソンはこの世界を「イマージュの総体」として観ようとしているのである。
それを彼は「本書においてはっきりと一元論の立場に立つ」と表現している。
要するに「イマージュ一元論」である。
ベルクソンはこの「イマージュ」によって「精神と物質」を統合しようとしているのである。
よく読み込めば、これがヌーソロジーで言うところの「観察子」と同じことなのだと分かってくる。
いやヌーソロジーの「観察子」は、ベルクソンの「イマージュ」と同じである・・・とした方がいいかも知れない。
それぐらい深い概念であるイマージュ。ただの「中間存在」ではない。
そして「イマージュ」における「持続」から「記憶」としての精神が出てくる。
「イマージュの総体」としての「全体(不可分一体・連続体)」から「部分」としての物質が出てくる。
「イマージュ」とは生きる持続であり記憶なのだ。
そして「イマージュ」を理解すると次のことが必然的に明らかになってくる。
それは「記憶は脳の中にはない」・・・ということである。
●記憶は脳の中にはない!
私たちの記憶は脳の中にはないのだ!・・・これが100年前のベルクソンの主張なのである。
『物質と記憶』の初版が1914年、あれから100年以上が経過した。
それでどうなったか?
今日の脳科学の発展はすさまじいものがある。それは、生きている脳を解剖することなく外から観察できる「fMRI」の登場によるところが大きい。
人間の「心的状態と脳の働き」の関係は、100年前とは比較にならない程に分析・理解が進んだ。
だから今日、「記憶は脳の中にはない」と叫んだとしても病院送りにされるだけである。何の説得力も持ち得ないだろう。
だが本当にそうだろうか。
確かに脳科学は進んだ。それと並行してコンピュータテクノロジーも驀進している。
その結果、「脳の働き」と「心的状態」は、ほぼ「コンピュータ」と「プログラム」の関係であろうと観る人がアカデミズムの多数を占める様になった・・・これが「脳機能主義者」たちである。
脳機能主義者たちの思考によれば、このままAIが進めば「人工意識」が登場するのは当然のこと、それだけでなく生身の私たちの意識もやがてコンピュータ上へと移動する「アップローディング」が可能になるだろうと・・・これがSFではなく真面目に議論がなされている。
このような議論をしているのは、いずれも当代一の天才達なのだ。聞きかじりのハンパ者達の議論ではない。
要するに彼らは「情報一元論」へと傾いているのである。すべては「情報」であると。
これこそが、この「すべてが情報である」という考え方こそが「すべてはイマージュである」の対極をなす考え方なのである。
もしくはこう言い換えればよい。ベルクソンの「イマージュ」は「すべてが情報である」という考え方の真逆に位置するのだと。
●「記憶」を守れ!
要するに「持続」がいっさい考慮されていないのである。彼らは持続がまったく分からない。
時にそれは「クオリア」の問題としても語られる。クオリアもまた持続と同じである。
ベルクソンによればそれらは共に「イマージュ」なのだ。そう・・・「記憶」である。
「記憶」を守れ。奴らは最後に記憶を奪いにやって来る。
記憶は「0/1」データなどと決して同じものではない。それは単なる記録だ。記憶ではない。
コンピュータが処理している情報科学とは、この記録データを扱っているに過ぎないのだ。断じて記憶ではない。
そこに生命などあり得ない。ましてや意識など生じるはずもない。そして味も温もりもない。
だからベルクソン哲学の「すべてはイマージュである」を理解することが急務なのである。
ここに世界の存亡がかかっていると言っても大げさだとは全く思わない。
ということで今月はベルクソン哲学のとうしん解説の回となります。
さてさて、どうなりますことやら。何やら熱量だけは伝わってくる・・・。
後は皆さんと顔を合わせての化学変化に期待しています。
初めての方大歓迎。そして久しぶりの方はさらに歓迎!!
教室にてお会いできるのを楽しみにしておりま~す。
★4/29(土) 大阪教室ヌースレクチャー
場所:江之子島文化芸術創造センター ルーム8
午後1時半~5時
※今回はいつもと同じ「阿波座」です。
◎大阪教室はビデオ撮りするレクチャー形式
テキスト・スライドを作り上げ、構成しっかりで臨みます。
時間もゆったりで、アフターも楽しいです。
※構築美の大阪レクチャー、懇親会も盛り上がります!
・定員20名(まもなく制限がなくなります)
・マスクはもういらない(但し花粉症は除く)
・体調の悪い方はご遠慮ください(これは毎度のこと)
《大阪ヌーソロジー教室お申し込みフォーム》
************* 転用ここまで *************
ということで、本日のブログはここまで。
それではまた。
とうしん