『なかいま自分教』ガイド

『なかいま自分教』ガイド

世界の様々な思想・哲学・宗教を探査し、最後にたどりついたのは『なかいま自分教』でした。
『自分教』にたどりつきつつある人が増えていると思います。
そのような方々を応援し、かつ自身の『自分教』を磨き上げる為にブログを書いて行きます。

みなさん、こんにちは。とうしんです。

夏至を越えて2024年は早くも後半に突入しようとしていますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

何やら関東方面は先週から真夏日・猛暑が続いていた様ですが、私のいる大阪はずっと涼しいんですよ。

本日は湿度も高くなくて、窓を開ければエアコンの必要はなく、朝からずっと快適なのですが、どうも日本列島の東西で熱量に極端な差が出ている様ですね・・・

と思ったら、都知事選じゃないですか・・・それ以外に思い当たらない、この東西の熱量差。

此度の2024東京都知事選・・・魑魅魍魎が跋扈する百鬼夜行と揶揄される乱戦模様・・・決戦日は7月7日、七夕決戦とありますが、これは何か集合意識による地殻変動のニオイがプンプンしてきますよね。

もしかして、「平将門」の結界が破れかかっているのでは(もちろん、良い意味で)・・・?

・・・などと妄想を膨らませ、人類全体の集合意識の動向をひたすら睨みつつ、大阪の一室に引き籠もり、本日も目の前の事物と身体に全集中して生活しております、とうしんです。


さて今回のブログ『なかいま自分教ガイド』は、いつもの様に関西ヌース・メルマガからの抜粋です。

今週末の大阪教室の案内文ですが、とても読み応えのある内容となっています。

是非ご一読ください。


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◆今月の定例ヌーソロジー教室◆

テーマ:脳からの脱出(Exodus 2024)
~ そして、遂に明らかになる「シン・鏡の法則」とは? ~



●「人類規模」の危機を根本解決するには

戦争・格差・差別・・・そして迫り来るデジタル管理社会と人間性の抑圧・・・

山積する問題を根本解決し、人類を破滅の危機から救い出すには

「脳神話」からの脱出しかない

と今やトーシンは本気で思っている。

逆に言えば、「脳神話」と根本的に決別していない「脳」が

何を考えようと解決しようと目論んでも

新たな問題を生み出すだけで、決して危機から逃れることはできない

・・・とトーシンは確信している。


●「脳神話」とは何か

「脳神話」とは、人間は感覚器を通して外界を知覚し、それが脳内で表象を作る・・・人間の精神活動とは、この脳内の表象活動のことであり、それ以外の何ものでもない・・・という見方・考え方のことを言う。

現代では脳科学・神経科学が発達し、そのうえコンピュータ&情報工学の急激な発展も伴って

人間の精神活動は、コンピュータプログラムの活動とほぼ同相として見られるようになった。

コンピュータも人間の脳神経も「情報処理」という観点では同じことをしている・・・というのである。

トーシンはこれを全否定する。

というかヌーソロジー、およびヌーソロジーに先行すること100年のベルクソン哲学の系譜は、これを断固として否定する・・・ということ。

「脳は行動の道具であり、表象の道具ではない」・・・がベルクソンの言い分。

分かり易く言うなら、脳は表象を作らない、脳内現象=精神活動ではない、ということ。

ただしベルクソン哲学は100年以上も前のものだからアップデートが必要である。

それは脳科学・神経科学・コンピュータ情報科学がこの100年で想像を絶するほど発達しているからである。

そこでヌーソロジーの出番となる。ヌーソロジーがベルクソンのバトンを受け継ぐのだ。

※実はベルクソンのバトンを受け継ごうとしたのがドゥルーズ。いま思えば、ドゥルーズの意図がよく分かる。そしてそのドゥルーズのバトンを受け継ごうとしてるのが、半田広宣氏のヌーソロジー・・・というワケである。


●ヌーソロジーの強み・・・人間の内面と外面

ヌーソロジーにおいては脳内表象を「人間の内面」としてきちんと定義できる。

その上で、真の実在の方向を「人間の外面」として見出そうとする。これは哲学史上、もの凄い進歩なのである。

きっと、間もないうちにこの真価を世界中の人が理解する日が来るだろう。

それで、人間の内面と外面とはきっちり「反転」している。

反転しているとは、「違う」ということである。次元がちがう。決して混じり合わない。

こちらを立てればこちらは引っ込む。二律背反の関係、矛盾の関係にある。

だがそれをひとつの関係として直観的に捉えることができる図式がある。

あの奇跡のオイラーの公式「eiθ =cosθ+isinθ」・・・複素平面上の単位円の公式がそれだ。

この単位円において「虚数」と「実数」というあり得ないペアが

ひとつの「直交関係」として統合される。


●ベルクソンの方法

実はベルクソンは哲学においてこれを為し遂げようとしていた。

精神と物質を直交関係として統合しようとしたのである。

その統合のカギは「記憶」であると彼は睨んでいた。

薄まった記憶、瞬間的に切り取った記憶の断片が「物質」の正体。

凝縮した記憶、全体が凝縮し、一度も途切れることのない連続不可分のものが「精神」の正体。

すべては「記憶」なのである。

ここから当然のごとく、記憶の本質は脳内にはない・・・ということになる。

これがベルクソン哲学の「第2法則」だ。脳は記憶を保存しない。

記憶は脳を溢れている。記憶の方が(脳よりも)もっともっと巨大である。むしろ脳自体が記憶の一部なのである。

そして「第1法則」は「脳は表象を作らない」である。脳内現象は精神活動ではない・・・ということ。


●精神活動は脳内現象ではない

精神活動は脳内現象ではない・・・とはどういうことか。

精神活動は脳内ではなく、いま目の前のそのまんまである・・・ということである。

いま目の前の世界がそのまんま精神活動であり、実在の世界である・・・ということ。

真にこの認識に達すれば、主客は一致する。

主客が一致すれば、心身が統一される。

心身が統一されれば、宇宙と一体になる。これは神人合一とも言える。

ついでにいうと、この認識によって主体は前に移動する。

前に移動することで「共感回路」が開通する。

共感回路が全開すれば、やがて「あなたはわたし」の領域が自然と訪れる。

「脳内現象=精神活動」という前提と根本的に決別していなければ

いつまでも後ろ側の主体である自我が付きまとい

その自我はあらゆる人間的な腐敗の温床となる。


●これこそがトーシンのライフワークだ

さてこれらをいかに分かり易く表現するか。

科学隆盛の現代人が納得できる様なカタチで提示できるか。

これこそがトーシンが全身全霊で追求するライフワークなのだといまや確信している。

そして半田さんがなぜあれほどに素粒子にこだわり続けるのかが、いまや良く分かる。

オカルトやスピリチュアルの神秘的ムードを漂わせてスタートした2000年前後のヌース理論が

いつの間にか哲学や数学物理のゴリゴリ知的路線を爆走し、「神秘」とは真逆の道を突き進んでいることに不満と嫌気を持った方は多いだろう。

気持ちは分かる。だがそんな人は一呼吸おいて考え直してほしい。

「脳内現象=精神活動」から脱却していないものが扱う「神秘」は「妄想」でしかない。

だがそこから脱却したものが扱う「神秘」とは「実在」であり目の前の世界すべてなのだ。

半田さんはそれを「素粒子」として、誰もが否定できない共通理解の図式として顕そうと懸命になっておられるのだ。

トーシンの場合は、現場における実践面として「脳からの脱出」がそれだと気づいたのである。


●時は流れず

そして「時間」は止まる。

そもそも「時間」が流れるということ自体が錯覚であったことに気づくだろう。

私たちは生まれてこのかた1ミリも移動などしていない、ずっと「ここ」だ(不動の空間)。

そして時間は少しも流れていない、ずっと「いま」である(不動の時間)。

時間は流れていないのだから、私たちは最初から「因果律」とは無縁なのである。

因果とは結果的現象に現れる関係性にすぎない。

私たちは因果の外にはみ出している。あふれ出している。だから「自由」であり、それが「精神」なのだ。


今回の教室では、「脳からの脱出」においていろんな角度からみていきたいと思う。

いままで小出しに語ってきたことも多いが、整理統合することできっと新たな地平が開かれてくることだろう。


●そして「シン・鏡の法則」が登場

その上で・・・今回のブートキャンプで持ち帰った最大の成果物

「シン・鏡の法則」

を皆さんとシェアしたい。

私たちは鏡に映った内容物を見ているのではない(それは人間の内面側)。

私たち自身が鏡だったのだ(これが人間の外面側)。

いままで語られてきた「鏡の法則」は、確かに有用であった。

世知辛い人間世界を渡り歩くために、必要な知恵であることは間違いない。

「人の振り見て我が振り直せ」に始まり

「人にしてほしいとあなたが望むことを、人々にもそのとおりにせよ」というイエスの金言に到るまで・・・

人は鏡・・・目の前は己を映し出す鏡、その鏡をみて自分自身を知れ・・・これらがスピリチュアルの王道であることは間違いない。

だが今にして分かる。これらはみな「人間の内面」における法則にすぎない。

いまこのマトリックスから脱出するためには、これではなく「人間の外面」の法則が必要なのである。

それが「自分自身が鏡」であったということ。

自分自身が鏡であったのなら・・・何が何を見ているというのか。

実像が鏡で反射すると鏡像を作る。

その鏡像を見ているのは実像自身である。

これが鏡の原則だ。

だから従来の鏡の法則はすべて、いま見ているものはすべて自分自身が映し出されていますよ・・・という図式であったことは理解できるだろう。

目の前が鏡像だということに気づきなさい・・・ということ。

だが外面の鏡はそうではないのだ。

外面では「自分自身が鏡」なのだ。

ここに「鏡像を見ているのは実像」であるという原則を適用するとどうなるか

すると見ているのは・・・このワタシではなく・・・目の前の「モノ自身」ということになるではないか。

・・・ナヌッ∑(・ω・; )???

ナヌッ???・・・と思われた方、是非とも今月のヌーソロジー教室にご参加を。

初めての方、久しぶりの方、お越し下さい。お待ちしています。





★6/29(土) 大阪教室ヌースレクチャー
場所:江之子島芸術文化センター ルーム8
午後1時半~5時



◎大阪教室はビデオ撮りするレクチャー形式
テキスト・スライドを作り上げ、構成しっかりで臨みます。
時間もゆったりで、アフターも楽しいです。

※構築美の大阪レクチャー、懇親会も盛り上がります!

※吉備ヌーソロジー研究会の面々もこぞりて参加予定。オフ会をやりましょう!


・定員20~30名(制限はありません)

《お申し込みフォーム》

◆5/12(日) 統心オンライン講演会2024 第2弾◆
 
春の風が心地よい毎日ですが、皆さんいかがお過ごしですか?
 
いよいよ今週末の日曜日です。
 
統心のオンライン講演会。2024年シリーズの2回目。
 
毎月、京都・大阪の定例ヌース教室を通じて開拓してきた「顕在化の叡智」を全国の皆さんと分かち合う会です。
 
今年は2013年(顕在化スタートの年)から数えて12年目、最終ゴールである「入神(2037~39)」に向けての折り返し地点であり、「自己側12年」の最終年となります。
 
「最終年」というだけあって、さすがに気づきのラッシュが凄いです。
 
以下、イベントのPR文ではありますが、多くの内容を盛り込んでいますから、読み物として是非ご一読ください。
 
またご縁がありましたら、是非ともオンラインライブにご参加ください。
 
毎回、オンラインライブならではの体感があると好評を頂いております(後日、録画視聴もできます)。
 
ヌーソロジー初めての方はもちろん、ベテランの方も楽しんで頂けます。
 
興味のある方はどなたでも大歓迎です。お待ちしています。
 
今回も何が出てくるか、乞うご期待!
 

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【2024 川瀬統心オンライン講演会 第2弾】
日時:5/12(日) 14:00~18:00
方法:ズーム・ミーティング
※オンデマンドで後日視聴もできます(約1ヶ月間)
※お申込はこちらのページからどうぞ。

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関西ヌーソロジー研究会主宰
武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所 特任研究員

ヌーソロジー研究家であり内在探求者
自分教ガイド・川瀬統心によるオンライン講演

2024年 ψ12「性質」の顕在化シリーズ 第2弾

テーマ:「意識する意識」と「意識された意識」
~ 「霊性」を奪回し、今・ここに永住する覚悟を得るために ~


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ヌーソロジーの役割として、意識における転倒した構造を告発し、その是正へと人々を導くことがあります。

幼少期より生きづらさを感じ、青年期を過ぎてもなお日々曇天の心境で、漠然とした日常にも苦しみ続けて来た統心にとって、ヌーソロジーが伝えてくれた「意識の転倒構造」という知見は本当の意味での救済をもたらしてくれました。

そんなヌーソロジーに出会えたのはすでに壮年期でしたが、お陰様でそれ以来、毎日五月晴れの心境にて、喜びの日々を生きさせてもらっています。


●「質」と「量」の転倒について

生きづらさの原因として、例えば「質」と「量」の転倒があります。

人間は往々にして「質」と「量」を転倒させる、そしてそのことに気付かないばかりか「質」の方は潜在化し、すべてが「量」化した空間の中に埋没する様になる…。

このことを今から100年以上も前に告発したのが哲学者ベルクソンでした。

すべてが「量」化した空間において、人間は生きる尊厳や自由の根拠を失ってしまうこと…、そして真の自由たる精神は、「質」である時間の方にこそ根拠づけられる…ということをベルクソンは示そうとしたのですが、繊細かつ難解な哲学のために残念ながら多くの人の理解を得るには到っていません。

ですがヌーソロジーはこの様なベルクソン哲学を分かり易くリフォームする可能性を持っています。

それが「奥行き」と「幅」…複素二次元空間から始まる「意識=素粒子」の空間認識です。

直交する「奥行き」と「幅」の空間整理によって、人間は様々な混乱から解放されることになります。この場合、質的空間(持続)が「虚軸・奥行き」にあたり、量的空間(時空)が「実軸・幅」にあたります。

この理解によって、ベルクソンが示したかったことが明らかになるだけでなく、彼が言い得なかったことも理解できる道が開かれて行きます。


●「意識する意識」と「意識された意識」

例えば「意識」に対する大きな誤解です。それは「意識する意識」と「意識された意識」の違いのことです。

今日、意識に対して発言する多くの人々がこの差異を理解せず、混同し混乱しています。そのために間違った結論に導かれようとしています。

「人間に自由意志はない」「AIは意識を持つようになる」「人間の意識は死後、コンピュータ上にアップロードできる」…などがそうです。

これらはすべて「意識」を「意識された意識」としてしか見出していないことに起因しています。より重要かつ本質である「意識する意識」の方がすっかり失念されているのです。

「質」と「量」が転倒してしまっている人間的な空間において、「意識する意識」の方は見出すことができないのですから無理もありません。

これをインドの現代的覚者として名高いラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジは、「気づき」と「意識」の違いとして語っています。

彼ら覚者の言う「気づき」とは「意識する意識」のことです。これは「真我」とも呼ばれています。ラマナ・マハルシはさらに分かり易く「スクリーン」と「映し出された映像」の例えで説明しています。

「スクリーン」が「意識する意識」であり、「映し出された映像」の方が「意識された意識」のことです。

彼らアドヴァイタ(不二一元論)の覚者達は、この真我である気づきに至ることだけを説き、人々にはひたすらそれを促してきました。

このことから分かる様に、空間認識が転倒している人間にとって、「意識する意識」を認識することは大変困難なことなのです。

しかしヌーソロジーによって慧眼を得た者は、これが極めて平易なこととして分かるようになるのです。これを「顕在化」と言います。


●スピリチュアル界隈で散見される量子力学の理解には賛同しかねるものがある

ところで今日、スピリチュアルの領域において意識と量子力学の関係について語られることが多くなりました。

量子力学における「粒子性と波動性」や「二重スリット実験」…「見ている時は粒子だけど見ていない時は波動」という実験結果を根拠に「意識は物質に干渉できる」「目の前の世界は自分の意識が作り出している」と安直に理解し解説するものが散見されます。

ですがヌーソロジーで伝えている「意識=素粒子」の認識は、これとはまったく似て非なるものなのです。

これもまた「意識する意識」と「意識された意識」の混乱・混同に端を発しています。

スピリチュアルが量子力学との関連で語る意識は「意識された意識」なのです。

対してヌーソロジーが一貫して語っている意識は「意識する意識」なのです。

ヌーソロジーが「意識の正体は素粒子である」というのはそのことです。「意識する意識」の正体が「素粒子」であると言っています。

ここには大きな違いがあり、似ているようで、導かれる結論はまったく違うものとなっていきます。

「意識された意識」のまま意識と量子力学の関係を追求しても、いつまでも「自我」と「欲望」から解放されることはないでしょう。これでは拡張された欲望がより多くの混乱をもたらすだけです。

しかしながら、「意識する意識」を「素粒子」として見出すヌーソロジーのプロセスは、確実に人間を自我から解放し、欲望を変容させ、無為自然・あるがままの境地に導くことになります。


●世知辛い「因果律」からも脱出できる!?

意識における「奥行き」と「幅」…直交する複素空間認識は、難解とされる禅の公案などにも新たな理解をもたらすことになります。

今回は道元禅師による「灰はのち、薪はさきと見取すべからず」を通して、「時間」に対する常識を越えた理解を見いだして行きましょう。

「灰は後、薪は先と見るべきではない」…私たちは普通、薪が燃えて灰になるという因果関係として「薪と灰」を見ますが、道元はそうではないと言います。

薪は薪、灰は灰であり、「前後ありといえども、前後際断せり」と彼は言うのです。

薪と灰の間には「断絶」があるということです。いったいどういうことでしょうか。

実はここにも「意識する意識」と「意識された意識」の差異が問題の本質としてあるのです。

続いて道元は「生と死」も同様に連続した因果関係ではないと言います。このことを真に理解した時、「不生不滅」の意味も分かるというのです。

ヌーソロジーはここにも深い理解をもたらすことができます。そしてそれは、ヌーソロジーに近しい哲学とされるドゥルーズ哲学における「純粋過去・純粋未来」に通じることだと分かるでしょう。

「過去・現在・未来」と連続した時間の流れしか分からない意識…これもまた、生きづらさの原因の筆頭にあげることができるものです。

これが「純粋過去」と「純粋未来」という差異を見出し、「過去・現在・未来」という凡庸な時間の流れを解体することになれば、そこには「いま・ここ」の「純粋現在」が現れるようになります。

この純粋現在を見出すこと、ここに永住する覚悟を得ることは「生きて死後の世界に入る」というヌーソロジーの方向性なのであり、これこそ「霊性」の奪回に他なりません。

※ここで言う「純粋現在」とは、西田哲学で言う「絶対現在」と同じ意味として使っています。


毎月の関西ヌーソロジー研究会で発表してきた叡智を数ヶ月に一度、全国全世界の皆様と分かち合う統心オンライン講演会。

ヌーソロジー・ビギナーの方でも気軽に楽しめ、かつベテラン勢もうならせる統心節の講演は、毎回好評を博しています。

ご縁のある方のご参加をお待ちしております。

統心はあなたの中の「変換人」を産み出すお手伝いを致します。

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みなさま、こんにちは。とうしんです。

春爛漫、気持ちのよい日々ですね。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。

暑くもなく寒くもなく、ちょうど良い気温…快適でモチベーションも上がる季節です、春生まれのとうしん的には。

お花見の時期の満開の桜も好きですが、とうしんはこの時期に満開するつつじが大好きです。


さて、今回のブログ『なかいま自分教ガイド』…先月に引き続いて関西ヌース・メルマガからの抜粋です。

メールセミナーの様な濃い内容ですので、ブログ読者の方もぜひご一読ください。


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◆今月の定例ヌーソロジー教室/大阪・京都◆

テーマ:「即非の論理」と顕在化
~ 「切断即連続」、そして「場の論理」から「空間脳」へ ~



●「即非の論理」とは

「即非の論理」と言えば、鈴木大拙の代表的な思想として知られている。

※鈴木大拙(1870-1966) 金沢市出身、世界的に有名な仏教学者。英語で禅の本を著し、日本の禅文化を海外に紹介した。

仏典『金剛般若経』に出る独特の言い回しを取り上げて、大拙はこう述べる(出典『金剛経の禅』鈴木大拙著)

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「仏の説き給う般若波羅蜜というのは、すなわち般若波羅蜜ではない。それで般若波羅蜜と名づけるのである」、こういうことになる。

これが般若系思想の根幹をなしている論理で、また神の論理である。

また日本的霊性の論理である。

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大拙はこのあと、さらに次のように言う。

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これを公式的にすると

AはAだと云うのは、
AはAではない、
故に、AはAである

これは肯定が否定で、否定が肯定だということである。

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AはAではない。まさにそのことによってAなのである…。

分けが分からないでしょう?

そう、それが正常な反応です。普通は分からない。ただのキ印だ。

だけど顕在化道を12年も歩んで来た統心は、いまやこのことが深く理解できる様になった。

以前のレクチャーにおいても、それなりに「メビウスの帯」などを使って解説したことはある。

なるほどメビウスの帯は、「表=裏」という「矛盾」をカタチとして視覚認識できる…これぞ正しく顕在化…だから、「即非の論理」をそれなりに表現はできる。

分かってなかったとは言わない。ニュアンスは充分感じていたつもりだし、その時点でのヌーソロジー理解を駆使して、変換人の「矛盾の論理」を何とか説明していた。

だが今から思えばずいぶん拙い説明だった…大拙だけに、大へん拙い。

今は違う。もっと深く、正確にお伝えし、皆さんをこの「領域」まで引きずりこむ自信がある。

そして、一見「即非の論理」ふうに見える解釈が、実はまったくの的外れであり、むしろ本質からは逸れてしまうという…そのあたりの「違い」も明示できると思う。


●「真」に近づくほど「偽」にもなる

「真理探究」の道においては、「分かったふう」という落とし穴が至る所にある。

探している道は見えない。それはこの世に「直交」しているからである。

直交成分は滞在している空間からははみ出している。

垂直と水平であり、奥行きと幅のことだ。

1度でもずれたら、それは垂直ではないし、奥行きではない。

0.0001ミリずれてもそれはすでに幅なのである。

そして統心がいつも言う「偽札の例え」。

子供銀行のお札に害はないが、精巧に作られた偽札は犯罪になる。

求道のプロセスとは、「真」に近づくほど「偽物」にも近づいているという矛盾がそこにあるのである。


●即非の論理は、日本的霊性の論理

大拙は「即非の論理」を「日本的霊性の論理」であると言う。

ここは偉大なる先人に敬意を表し、喜んで鵜呑みにしよう。

そう、これが日本的霊性なのだ。

これは「潜象界」への気づきとも言えるだろう。

日本的霊性とは、潜象界を感じ取る感性のことだと思う。

現象界と潜象界…オモテに現れる現象界の背後、そのウラ面には潜象界がぴたりと重なっている。

これは「因果関係」ではない。ここが先ほど少しふれた誤解のひとつでもある。

因果というのは時間的な関係であり(流れる直線的な時間上の関係)

因から果へと進む。必ず両者の間には時間的な分離がある。

現象と潜象はそうではない。時間的な分離はない。同時的だ。共に「なかいま」にある。

だが同時でありながら、この両者は同じ水準にはない。

全く交わるところはない。空間が違うということだ。

だからこの関係は「矛盾」でなければならない。

矛盾とは、一つとして同じ所がなく、同時には成立しないことである。

同時には成立しないことが同時的とはどういうことだ?

だから成立している空間が違う…ヌーソロジーではこれを「反転」という。


●「円心図」にはご注意を

ところが…この「反転」を説明してしまうと、それを理解する者の脳内平面では「同じ水準」になってしまう。

統心がいつもいう「円心図」を見る時の注意点だ。

ヴェシカパイシス…円心図…あの図の本質は、ひとつの円のウラには反転した円がもうひとつあるということ。二つでひとつ。

だが図では両方の円が一つの図として表されてしまう。そのことを言っている。

「まったく違う空間」なのに、同じ空間上で説明されてしまう。

この様な状況をヌーソロジーでは「中和」と呼んでいる。

差異が見えなくて、同じ水準で見てしまう状況のことだ。

こういう理解を積み上げてしまうと、自分自身が「それ」になることができなくなっていく…。

あの「領域」に参入できなくなってしまう。


●「自我は評価関数」…という天才・苫米地博士の理解

現象と潜象はそういう「矛盾」の関係だが、それは「否定」の関係でもある。

潜象界は、自身のすべてを否定して現象界を送り出してくる。

だがここにも注意が必要だ。

例えば、あの天才・苫米地博士の理論にこういうのがある。
「私を成立させているのは、私以外のすべて」だと。

苫米地氏によれば、私(自我)とは評価関数のことであり、全世界の存在物から自分に関係のあるものだけを抽出する「関数」である…と。

逆に、私に対してその「逆関数」をかければ、今度は全世界が出てくる…と。

なるほど、実に説得力のある内容だ。さすが天才である。

だが、このような理解がもっとも真実から遠ざかるものだと統心は思っている。


●苫米地理論の何が問題か

…私とは私以外の全ての要素がウラ支えしている…

私以外なのだから、それは「否定」である。

まさしく「否定」によって、私はいまここに成立している。

論理的にはそうだ。そしてこれは「即非の論理」を説明しているかの様にも思える。

だが「私と私以外」という理解が…先の苫米地氏によれば「集合論」になっている。

これは「世界」という全体集合の中で、各要素を同じ水準で見ていることでもある。

頭の良い人はいつもこうだ。すべてを俯瞰する目線。そして成績がよく、社会的実績も突出している。

私はずっと、こういうタイプの頭の良い人には違和感を持っていた。

何かが違う…ずっとずっと違和感があった。

でもいまなら良く分かるよ。

これは「幅」の理解なのです。ここでいう「私と私以外」とは幅的水準。

そしてこれは「相対的関係」…相対論的な思考。


●現象と潜象は「絶対的関係」

現象と潜象…即非の論理はこれではない。似て非なるものだ。

先の幅的理解が「相対的」なのに対して、こちらは「絶対的」な関係。

現象界は潜象界の「絶対否定」によって押し出されたものである。

私とは「私を絶対否定」するものによって押し出されたものである。

私を絶対否定するものによって、私は支えられているのである。

私を絶対否定するものとは何か…

…それは「他者」である。他者しかあり得ない。

他者とは「絶対的に自己ではない」ものだ。

そのような他者がこの自己を支えているのである。

なお、ここでいう「否定」にネガティブな意味は全くない。

否定がネガティブなのは「相対否定」の関係の時である。

他者を否定して自己を肯定する。他者を引き下げて自己を揚げる。

相対否定は勝ち負けだ。相手が負けてくれると自分が勝つ。

逆に自分が勝つときは相手が負ける。いわゆるゼロサムゲーム。

何とも世知辛い、殺伐とした悲しい関係ではないか。

そして「人間」はこの関係しか知らないのだ。

いや、このような関係性の水準にたたき落とされているのが人間なのだ。


●絶対否定と相対否定のちがい

現象と潜象はそうではない。

潜象は現象を否定…というよりも潜象自身を否定=絶対否定し、現象を押し上げる。

ここが相対否定とは違うところ。相手を押しのけて自分を成り立たせるのが相対否定。

相手を持ち上げて、自分をさげすむ相対肯定も同じ水準である。

絶対否定は違う。自分自身を完全否定し、相手を別領域へと押し出す。

現象は潜象によって絶対否定されるのだが、それは即、絶対肯定となってウラ支えされる。

絶対否定、即、絶対肯定なのである。

これが奥行き・絶対の関係。

先の相対否定・相対肯定は幅の関係である。

要は、苫米地氏の集合論・関数の理解では、日本的霊性に触れられないということである。

事実、苫米地氏の論理においては「空」が最上位となり、最下位に「矛盾」が来ると。

つまり宇宙の本質は「空」だという。

でも日本的霊性やヌーソロジーはそうではない。

宇宙の本質は、まさしく「矛盾」なのだ。むしろ矛盾の方が本質なのである。

(苫米地氏が最下位とする「矛盾」は、ヌース的にはむしろ本質ですよ、という意味)

それは「現象-潜象」の様に同時存在として、絶対肯定・絶対否定の関係として、いまここに「奥行き」的に共存している。

私を私ならしめているのは、私以外の全て=私を絶対否定するもの=他者(あなた)…ということである。

永遠の我と汝の関係…これ、西田哲学である。

西田幾多郎の晩年の境地「絶対矛盾的自己同一」とは「即非の論理」のことである。

この様な奥行きの領域に意識を侵入させていくことが正しく顕在化だ。日本的霊性の復活である。


※苫米地氏をディスっているわけではなく、彼の論理はあくまでも西洋論理、対象論理であるということ。それに対して西田や大拙が追いかけたのは東洋論理であり、さらには日本的霊性であった。この論理はそのままヌーソロジーに繋がっている。


●薪が燃えて、灰になる……のではない?

「即非の論理」を探究したのち、「切断即連続」について見ていこう。

道元禅師は言う「灰はあと、薪はさきと見取すべからず」

薪が燃えて、その結果、灰になる。これが常識的な見方。

だから「さきに薪」があり、「燃えたあとで灰」になると。

道元はこの様な見方をしてはならない…というのである。

道元によると「薪は薪」であり「灰は灰」なのだと。

さらに「前後際断あり」…とも言う。

薪と灰は別のものだと言うのだ!

だから薪と灰の間にはスキマがある。決して連続変化ではないと。

しかし、常識的には薪が燃えて灰になる…連続変化である。

それがそうではない…???

そうだ…まさに「即非の論理」と同じ類いの思考である。

薪と灰は別のものだ。断絶している。しかし、断絶しているからこそ連続する…。

実際の道元の言い回しからはすこし変調して書いたが、彼の言いたいことは外していない。

人間が常識的にみている「因果関係」というのも、それは表面的であり、現象的であり、幅的だということ。

そのような見方しかしていなければ…「領域」に参入することは決してできない。

因果律に引き込まれたら、かならず「いま・ここ・わたし」を見失うことになる。

そうではない見方をしていく…即非の論理、この場合は「切断即連続」…そのことで、奥行きであり日本的霊性に参入していくのである。

このあたり…前回の「純粋過去と純粋未来」などと関連して、ヌース的に非常にオイシイ香りがしている。

理解することが、そのまま参入となっていく…そのような顕在化の領域を共に開拓していこう。


●「モノは空間のフヨウ物」byオコツト

そしてこのような理解の仕方が「場の論理」というものであり、ヌース的には「空間脳」の発現ということになる。

「モノと空間」は「現象と潜象」の関係なのだ。このことが分かるのが「場の論理」である。

「モノと空間」を単なる「図と地」として見るのは相対理解にすぎず、これでは何も変容は生まれない。

ヌーソロジーでもゲシュタルト反転の例として「ルビンの壺」をあげることがあるが、あの理解のままでは「中和」に留まってしまう。先ほどの「円心図」と同じだ。

「場の論理」そして「空間脳」は、それでは開かない。

「空間脳」を開かなければ、人間はほどなく「電脳」にとって変わられることになるだろう。

「電脳」とは完全なる「他者化」である。自分の「感じ方」を失った屍である。

それに対して「空間脳」は「あなたはわたし」へと意識を導いてくれるだろう。

そこはお互いの感じ方を共有し、共感できるあの「領域」なのである…。


興味のある方はどなたでも大歓迎です。

とうしん勉強会は、初めての方でもベテラン勢でも楽しんで頂ける路線をひたすら走り続けます。



★4/27(土) 大阪教室ヌースレクチャー
場所:江之子島芸術文化センター ルーム8
午後1時半~5時

◎大阪教室はビデオ撮りするレクチャー形式
テキスト・スライドを作り上げ、構成しっかりで臨みます。
時間もゆったりで、アフターも楽しいです。

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・定員20~30名(制限はありません)
・体調の悪い方はご遠慮ください

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