高齢になると排泄障害 がつきものです。

糞便を撒き散らす老人 に関する記事を東洋ダイヤモンドだったかで読んだ記憶があります。

資産を持つ裕福なご老人は、いつしか自分の糞便を辺り構わず撒き散らすようになってしまった。

奥方が苦労して最善を尽くしてくれる施設を探す。

何十軒も断られ、ようやく受け入れてくれる有料ホームに辿り着く。

決して聞こえないふりをして放置することなく、 全てのトイレコールに応え、排泄後綺麗に肛門を洗うケア 。これにより、ご老人の糞便撒き散らしが解消。穏やかに暮らせるようになった・・・・

横浜のさる有料施設だそうです。ただし利用料一時金2000万円 他に毎月30-50万円 この記事を見たとき、母のために利用したいが、経済的にとても手が出ない。

でも人に頼むのではなく自分がしてあげれば2000万円+月30万円の経費をかけるのと同程度の効果が、生まれるだろう。そう思いました。

老後にお金が必要と焦るのは、身近にも例があり、驚きながらも考えさせられました。

お金ではなくて、親身になってくれる「人」が、本当は必要なのです。

お金はあればあるほど却って邪魔になることすらあります。

狙われて、本来の自分の能力すら毀損されては、お金など邪魔以外の何物でもない。


しかしながら、お年寄りの中には大変にお金に執着され、また今まで表面にしか価値を置いてこなかったため、スーツを着た男性とか和服をまとい淑やかに振る舞う女性にはころっと騙されてお金を渡してしまったり、ニコニコして我儘を一時的に聞いてくれる異性に頼り切り、裏切られる人が多いようです。

ニコニコして優しい態度で酷いことをされているのに、それをそばで指摘する真摯な眼差しの質素な身なりの人のことを「みすぼらしい」となじったり。


「リア王」みたいなものですが、現実にゴロゴロしていらっしゃるような気がします。


そのように生きて来られたから、なかなか、今更、本物は誰なのか、判断出来ない。

人間は自分の拠り所にしたものと似たタイプの人を信頼するのかもしれません。

ほとんどの人はあまり自分を省みる時間も習慣もなく、ひたすら時間に追われて、時間を消費しているでしょうから、自分の奥深いところにある良心の弱さは見ている暇もない。・・・

そのせいか、「人を踏みつけにできない=弱い」ことは許せないことなのかもしれません。


ある人にとっては人を踏みつけにすることこそを「弱さ」と表現しなければならないものですが、人の世はすでに言葉がお互いに通じなくなってきているのです。


自分は魂を穢しているのに、魂も穢さずに、奢れるものと対立しようとすることは、許せない。己の醜悪さが目立ってしまうから。



上記の良心の弱さとは別の意味で、老いるということは確実に肉体的に「弱い」要素が強まるものです。

明け渡すことが必要な時期が迫っているなら、余計に心を澄ませ、本当に信頼できる「人」を「思い描く」作業が必要かもしれません。


それこそが「終活」に相当する行為でしょう。



安易に財産整理して買い物でもするように素敵なホームに飛び込むのを指すのではない。


もっと深い内観。クリスマスキャロルに読み取れるような静寂の中での自己との対話が必要とされるのではないかと思います。


委ねるのか。
委ねないで一切成り行きに任せることを良しとするか。


委ねることができるのはあったこともない他人なのか、これまで付き合ってきた人の中にそういう人がいるのか。どこまで委ねるか。自分はどこまで生きていたいか。どんな風に生きていたいか。人を見る目が自分にあるのか。いろいろ考えさせられると思います。本当の自分と向き合う作業とも言えるかもしれません。誰のことも思い浮かばないこともあるでしょう。


だからといってお金にしがみついても結局はお金好きの人にそばに寄り添われてしまえば、望んでいる平安は得られない。悲惨な例は巷にゴロゴロしています。



人生の黄昏の時期に遭遇した狂騒曲を目の当たりにして、「委ねる」ことの難しさを考えました。

どうやら、人生の店仕舞いすら、そっとしておいてはくれないようです。でしゃばりで傲慢で効率第一主義の性格の久仁ちゃんは、相手が弱ったとみると、仲間に集合をかけて、あれせい、これせいと本人に語りかける手間も惜しみ、適当におべんちゃらを言って、さっさとお久仁ちゃんの「考える」清潔な座敷牢に入れてしまうのです。そういう人に魅入られて70年も経過しているらしい。


委ねるにしても、自分が抜け殻なら結局、抜け殻人間を信じてしまい、頼り委ね、凄惨な結末を迎えることになる。




お金だけを必死で追いかけてきましたね、生き抜くためだと思い込んで。
思い込まされました。なんでもお金で解決できたし。


そのうち、札束で頬をはたかれていることにも気づかず破廉恥にも未来の子供の命を犠牲にしてもその頃はわしらはもうこの世にはおりません、関わりありませんという政治家まで輩出した。



蒔いた種を刈り取る時期に、日本社会は来ているのではないでしょうか。




周りを見渡して見て下さい。
死屍累々ではありませんか?



どうしてこんなことになるのか。

鹿児島県阿久根市市議会議員(現)元阿久根市市長の竹原信一さんのブログ住民至上主義を熟読されれば理解できます。

日本の場合、言葉の操作により、法律が歪められ、憲法をないがしろにする社会となっています。

公務員法のトリックを起点に、介護保険、医療、福祉、あらゆるところに言葉のトリックが蔓延し、言葉と事実の乖離すなわち偽りが充満しています。


例を挙げるならば、

石川県の情報公開(数年かかる)。

石川県の虐待通報対応の過程。

横浜市の市民の声制度の蹂躙。

千と千尋の神隠しで取り上げる
医療保護入院とは名ばかりの一種の拉致事件。


これらがあなたやあなたの家族には

起こりませんように。

起こっていても

不運と片付けて

気づかないことが多いのかもしれません。



その時気づかなくても

見過ごされた害悪は何処かに累積され、

いつか刈り取らねばならない時が

必ず来ます。



戦争になれば
権威と思い定めた者のいうことならば
なんでも従う集団主義の日本社会では
もっと悲惨なことになるでしょう。




私の感覚では静かな内戦状態が
何年も続いているのですが。

銃口は国民に向けられています。


あなたは痛みは感じませんか。

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