「半分は面スタイルのボブ。あと半分は任せます」とジョージ先生に言われた。
いきなり言われた。

そんなスタイルはやった事もないし、見た事もない。
試作を繰り返しゴーサインが出た。

dhkさんで優勝させて頂いて、また東京大会。
モデル確保が出来ていなくて、関越でも使えるようにと長めに仕上げた。

これがいけなかった。

メリハリやキレがない作品になってしまった。やっぱり一発勝負の気合いが必要な世界だ。

「まだ決まってもいねえのに、次とか考えるな」と散々説教されて、いい勉強になった。

表彰式。

さっさんがグラデーションフリーで優勝した。半端じゃない練習量だった。休みの日に朝サロンに行くと、ロッキーのサントラかけて汗だくになってた。2人で優勝を目指して毎日練習していた。
さっさんが優勝して心から嬉しかった。

泣き虫のさっさんが涙1つ見せなかった。自信があったんだと思う。
で俺の番。

3位だった。東京大会で表彰台に上がれるなんて夢みたいだった。
陽さんも喜んでくれた。

関越は16位で逆転されて全国には行けなかった。全国への道は遠い。

次の年は「トップは全部面構成」と言われた。もう師匠を信じるしかなかった。
さっさんは同じ部門にチャレンジする最初の年だった。

そんな「何か」が変わっていきそうな時の3月、さっさんが夜中に病院に運ばれた。
なんでも心臓が痛くて呼吸が出来なかったらしい。
そしてその日のうちにすぐ診断結果がでた。

さっさんは、
毎日一緒に練習してたさっさんは、
2人で夢語り合いながら酒のんでたさっさんは、
本当の弟みたいに思ってたさっさんは、


「急性骨髄性白血病」だった。



東京大会二回目。
その前に俺達は、陽さんと俺は、子供を授かった。
双子の男の子だとわかった。

もうお腹が大きくなり、安定期も過ぎていたのに、名前も決めていたのに、

俺達の双子ちゃんは、お腹で死んでしまった。
今でも思い出すと涙が出てくる。

お前達の事、1日も忘れた事ないぞ。

そして二回目の東京大会。
陽さんは頑張って見にきてくれた。
いいとこ見せるしかないと思った。
「見とけよ」
陽さんに元気になって欲しかった。
陽さんの事しか考えてなかった。
自分なんてどうでも良かった。

それは間違った考え方だった。

本当に誰かの為になりたいと思った人間は、そんな事考えない。
自分自身に、自分の為に一生懸命になる。
それだけが、その「誰か」の為になると信じて。

結果は9位。予選落ち。

新婚時代も、妊娠した時も、悲しい事があった時も、ずっと応援してくれて、なんとかしてあげたいって思った東京大会でも負けて、もうダメかと思った。

想像できますか?
男のくだらない夢にそこまで付き合えますか?僕が女の子だったらむ 無理かな。

俺は次の日からまた練習を始めた。


しばらくして工藤さんが卒業した。 目の前で日本一を見せてくれた事。一生忘れる事はないだろう。
練習を見ていて、「ここまでやらなきゃ狙えないのか」と思った。いつか日本一に、なんて、恐くて言えなかった。
ビビり屋なもんで。

それでも、いつかいつかって、練習を続けた。5年目で初めて東京大会で人間モデルの部門に出た。

当時は、死ぬ程努力していると思っていた。
笑ってしまいます。
手応えは無かった。ただ必死だった。

7位までが東京都代表として関東甲信越大会に行ける。
結果は、5位。入賞。

涙が止まらなかった。何の涙だったんだろう。ホッとしたのかな。感謝の涙だったのか、今はよく分からない。師匠や工藤さんや、仲間たちが喜んでくれた。

会場の外に出て陽さんに電話した。
「賞取ったよ!東京通過したよ!」
陽さんは極めて穏やかな声で、
「分かってたよ。ずっと祈ってたら、競技終了くらいに、窓から日がさしたんだ」と言った。

その日は曇っていた。

俺は、陽さんと出会って本当に、本当に良かったと思った。

今でも、いや今の方がもっと強くそう思っている。

そして関東甲信越大会。

競技が終わって周りの作品を見て、「俺が居ていい場所じゃない」と思った。レベルが違う。

20数人中、ビリから2番目だった。

「早く帰らせてくれ‼‼」といい歳してワンワン泣いた。



工藤さんが「帰ろうぜ」と、信じられない位優しい声で言った。