他者の評価じゃないという最大の体験 | ondalindaზ⋆∞のびのびとしたあなたを生きよう∞⋆✧

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OSHOタロットリーディング、内観、多次元的視点に関する各種講座、セッション、継続ワークをしています。
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大学卒業年度に、卒論を書きました。

それは全然大した評価を教授からもらえませんでした。卒論に対して問答する面接のような時間が教授との間に一人ずつあって、その時に何かしら評価が分かるような感じで、「やっぱり評価はよくなかった」という印象があります。

そこにかけた研究や検証時間を思うと、そして、結局のところまとめた内容に対しても、評価はまぁそんなもんだろうと思っていたから驚くことはなかったけれど、自分の中では説得力はないにしても「こう書いたのには、私はこう感じるという言い分がある」と思っていました。でも論文っていうのは、「こう感じるからこうです」ではダメだから(笑)、評価は仕方ないと思っていました。

でも、それからずっと、驚くことに、私はその論文で考えたことを、特に仕事を通して検証し続けるということになりました。さっぱりの評価だったダメ論文ですが、人生に多大な影響を与えることになったわけです。

論文の題材はこちらの本でした。統合失調症(旧名:精神分裂病)と夢(眠るときにみる夢)についての考察が、私の論文の内容だったのですが、この本を主な研究対象にしました。
(※2002年8月に精神分裂病から統合失調症に病名が変更されました)

 

この本とその時の論文で考察したことは、私の仕事の原点のようになっていて、その時はそんなものになると思っていなかった教授からは全く評価されなかったあの論文が、論文はともかく、あの論文を書いた体験は、私の人生でめちゃくちゃ大きなものだったということになります。

このことは、わたしにとって、「物事は自分にとってどうかであり、他者の評価ではない」という最大の体験だと思います。

教授の評価が間違っていたわけじゃありません。論文としては確かに大した論文じゃない。なんなら「これはぜったいアカンのだろうな」と思っていた理由は、結論で「やはり愛だと思います」的なことを書いています(笑)「アカンて、論文でそれは、たぶん、絶対にアカンやつやて」と思っていました。

でも、「そうとしか思えないのだから仕方がない」それが私の言い分でした。けれど、それをそうだと確信していくには、二十歳そこらじゃ説得力がなさすぎる。裏付ける経験値がなさすぎる。

本当は「夢」との考察だから、当時の私は精神科でアルバイトをしていて、ありがたいことに(?)一日にかなりの人数の方が通所されるデイケアだったので、統合失調症と夢(眠るときにみる夢)との考察を統合失調症と診断されている通所者の方々と話をする中で検証できたらいいなと思っていました。

けれど、実際そんな意図で会話をするならば、「今私はこういう論文を書いていますので協力していただけませんか」とデイケアの上司からスタッフ全員に承諾を得て協力をしてもらって、通所者の方々にも承諾をいただいて云々、、と考えるだけで気が遠くなり、そして気が引けた(笑)私はペーペーな学生アルバイト。だからこそ、開き直ってやれそうなものだとも言えるけど、そんな目的で話をして心を開いてくれる気もせず、何やら的外れになる気がして、本来自分がここにいる一番の目的は、まったく力不足でも一応スタッフなので、0.1も何かできている気もしないのに、この環境で自分のしたいことを押していくって何かが本末転倒な気がする、、、と思いました。

私とは真逆の全然違う選択をする人がいたとして、それはそれで素晴らしい!と思っていそうな気もするけれど、その時の私にとって、一番大事にしたかったものは私になりに守った結果、出来上がった論文自体は、教授からは全く評価されないものになりました。(半分言い訳。半分本当。現場で検証できなくても、書物からだけの考察でも、論文としてすごいものを書く人もいると思う)

でも、振り返って、あの時の「論文を書く」という行為が、25年も経って、仕事の原点になっていることに、ある日ビックリしました。教授には評価されなかったけど、「分裂病少女の手記」という本を読んで、あれからずっと、これは「愛が治癒の根本じゃないの」と思った(本の内容は学術的なものです)、そのことをそこからずっと「そうなのか、どうなのか」を検証し続ける視線が働き続けるという、その後の何十年のための”種まき”になった行為だったのだと思うと、教授からの論文の評価なんて、あまりにも「そんなの、どちらでもよい」というものになります。


最近、こーちゃんがいよいよ防災理事担当として大きなところに立って発表しないといけないやら、大きな研修の主催で用意をしなければいけないやら、そんな緊張するなぁ~プレッシャーだな~みたいな話から、このことをふと思い出しました。

「でもさ、防災のための防災活動であって、研修や発表のための防災じゃないしさ。研修や発表なんて、その先の本当の目的の通過点に過ぎないから。人の暮らしが豊かであることを願って防災の活動があるならば、いつも目的なそこなんだと思ってやると、必ず本当の成果に繋がるよ」なんて話をしていました。

「卒論でよい評価をもらうために卒論があるんじゃない。研究項目を胸にもちスタートして社会に出ていくことが卒論の目的なんだったとしたら、そんな意識をしてたわけじゃないけど、そうなれていたことが本当に良かった」そう思います。

これは何においてもきっと言えること。

他者の目先の評価が気になると、目的からズレて、目的を見失う。

いつも、「本当の目的を忘れない」。

目先の評価じゃない。もっと私の瞳が見ているものがある。

したいことがあるなら、本当の目的を胸にもってそれを見続ける。そのために目の前にあることを誠実にする。

それが、他者の評価を超えて、本来のものと結ばれる最短の方法だと思います。

ちなみに私は、「本当の目的」なんて、二十歳の頃わかってはいませんでした。

ただ、デイケアで統合失調症の方々を目の前にして、睡眠時の夢について探ろうとするよりも、「ただ今ここの関わりを純粋に努めることで精一杯やわ~」って、論文の検証を優先順位にあげなかったことが、ハートに従った結果だったのだと今は分かります。

よい論文を書くことよりも、なんのために心理学を専攻したのか。なんで大学入るときに社会福祉科か心理学科だと思ったのか。なんで、その分野に興味を持ったのか。遡ったら、中学時代に人の話に寄り添いたい、テストで良い点とるよりその方が今大事やろって思ったから。なんで、そう思った。なんで?って遡っていくと、大切にしたいことなんて、具体的な大それたものでもない。でも、そんなコアなものを大事にし続けることが最も、自分の本当の力に出会える。

「本当の目的」が分からなくても、「何を本当に大切にしたいか」に従っていくと、まだ自分では顕在意識で掴めていない「ハートの目的」に導かれるんだと思う。

 

仕事の原点に結果的になったこの本。
どんな内容かは、こちらの皆さんの感想が描写してくれています。

 

 

 

 

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