演歌の女王よ永遠に | デトロイトヒットマンのブログ

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2024年がスタートして早2ヶ月 私が芸能界で最も衝撃を受けたニュースは演歌界の大御所 八代亜紀さん死去の報だった

 

昨年暮れの12月30日に亡くなったというのだ

 

演歌歌手 八代亜紀 私たち還暦世代以上の人間で知らない人はまず居ないでしょう

 

魅惑のハスキーボイス 日本人離れした彫の深い派手な顔立ち

文句なしの美人さんでした

 

演歌の女王といえば美空ひばりを想い出すのは戦前生まれか昭和20~40年代に青春時代を送った方々でしょうが我々世代ではやはり八代亜紀こそが演歌の女王に相応しい歌手だったと思う

 

とにかく唄が上手く その歌声が魅力的だった

 

15歳でクラブ歌手を目指し熊本から東京へ

 

昭和40年代当時なら高校進学率はかなり高かったはず

それでも夢のために上京した・・・表向きには

 

しかし現実的には経済的にも進学は厳しかったようだ

だが それは父親のプライドのためにも絶対に口にしなかった

 

戦後20年経ってはいたが地方はまだまだ貧しい人たちが沢山

昭和40年代はまだそんな時代であった

 

所属していたクラブには売れる前の五木ひろし(三谷謙)が居た

10代の少女八代亜紀は五木ひろしと同じステージに立ち夢を語り合ったと云う このままでは終わらない 必ず有名になるんだ

 

それが10数年後には共に芸能界でビッグヒットを飛ばし大スターとなり レコ大を争い NHK紅白のトリで対戦するとは!

 

まさに昭和の成り上がり 見事なサクセストーリーではないか!

 

共にターニングポイントは全日本歌謡選手権だった 

伝説のオーディション番組 プロアマ問わず参加でき 10週勝ち抜けばレコード会社との契約権を獲得できるという夢の舞台

 

アイドルを目指すならスター誕生へ

本格的な歌手を目指すなら全日本歌謡選手権に挑戦するのが主流

 

だが その厳しさは雲泥の差があった

スタ誕で最も厳しい審査員の阿久悠でもまだ優しかった

 

全日本歌謡選手権の審査員 船村徹 淡谷のり子 ハンパ無く怖かった 見ていて恐ろしいくらいの緊張感があった

 

当時 小学校高学年の私はもっぱら日曜昼に放送されたスタ誕を楽しみに見ていた 森昌子 桜田淳子 山口百恵 岩崎宏美 

片平なぎさ 石野真子 等々 キラ星の如くアイドルが誕生した

 

全日本歌謡選手権は両親が見ていたため付き合いで観ていた(笑)

審査員の情け容赦のない批評が子供心に恐ろしかったのだ

 

売れないプロ歌手が再起をかけて最後の望みをかけて挑戦してくる その一縷の望みさえ打ち砕くような残酷な言葉を投げつける

 

”その程度の歌唱力でよくプロと名乗れるな”

”もう歌手を諦め故郷に帰った方が自分のためだ”

”恥ずかしげもなく よくこのステージに上がってきたな”

”プロ歌手失格! 言えるのはそれだけ”

 

もうプライドもズタズタにされる凄まじい言葉の圧力

 

但し ここで10週勝ち抜けばレコード会社との契約権 有名作詞作曲者の楽曲提供 強力なプロモーションを受けられる

 

ただただひたすら耐えるしかない凄まじいオーディション番組

 

番組当初は10週勝ち抜いた歌手が何人か出たが全員売れなかった スター誕生ではもう何人も人気者が出ているのに

 

全日本歌謡選手権優勝者は大成しない そんな声も出た中で

五木ひろしが「よこはまたそがれ」で大ヒットを飛ばした

 

50年以上経った今でも覚えている 司会の長沢純が番組冒頭で

”この全日本歌謡選手権からついに五木ひろしというスターを生みだしました”高らかに宣言したことを

 

母親は当時中学生だった天童よしみを推していた

”この子は絶対に売れるわ”と 天童よしみも10週勝ち抜きプロ歌手になったが売れるまで15年程かかっている

 

その間 歌手を諦めることも考えたそうだが 全国の小さな劇場にレコードのキャンペーンに歩いていた時 劇場事務所に八代亜紀のサイン色紙を見つけた

 

レコ大を受賞し紅白の大トリまで務めた大スターの八代亜紀さんがこんな小さなところまで来ていたのか レコードを売るためにはそこまでしなければならないのかと感動し自分も頑張ろうと決意を固めたのだと

 

八代亜紀も栄光への片道切符を賭けて全日本歌謡選手権に挑戦し10週勝ち抜いた 八代亜紀は父親が推していた

”この子は唄上手いな”と ただ審査員の淡谷のり子にはボロクソに叩かれていたが(苦笑)

 

八代亜紀のデビュー後に淡谷のり子との因縁のエピソードがあったことを美川憲一が何かの番組で語っていた

 

エレベーターにたまたま乗り合わせた2人 八代亜紀が”淡谷先生おはようございます”と挨拶するも淡谷のり子はそっぽを向き無視 八代亜紀はソッポを向いた方向に行き”おはようございます”と何度も挨拶するが淡谷のり子はその都度無視

 

しかし何度も繰り返すうちについに淡谷のり子が根負けし”おはよ”と返したそうだ 美川憲一も内心ハラハラしながらも心の中で拍手を送ったようだ

 

この件は特定の人から嫌われている 好かれていないと嘆いている人はぜひ参考にしてみてはどうだろうか?

 

気難しい上司や先輩たちと仲良くなるためには自らが動き努力しなければいけないのだということを

 

 

そして再デビューを飾った八代亜紀もついにビッグヒットを飛ばした 1973年 23才 「なみだ恋」

 

 

この日からスター街道を突っ走った八代亜紀の活躍についてはもう語る必要もないだろう

 

敢えて言うならNHK紅白歌合戦 歌手なら誰もが夢見る大トリを務めた女性歌手は74年の歴史の中で僅か11名しか居ない その内訳は

 

美空ひばり 11回

二葉あきこ  1回

笠置しずこ  1回

島倉千代子  1回

都はるみ   3回

八代亜紀   2回

石川さゆり  1回

和田アキ子  1回

小林幸子   1回

松田聖子   2回

MISIA    3回

 

美空ひばりはまさにレジェンドであり圧倒的な存在

 

その他複数回大トリを務めた都はるみ MISIA 松田聖子

そして八代亜紀の存在は我々の次の世紀の芸能史にまで名前を刻まれる偉大な歌手であることは疑いないであろう

 

八代亜紀にはもうひとつ女性演歌歌手レコード通算売上1位という素晴らしい記録ももっている

 

 

ところで 何故アイドルファンである私デトロイトヒットマンが演歌界の大スターである八代亜紀を今回取り上げたのか?

 

実を言うと私の父親が昨年の11月30日に90歳で死去した

90歳まで生き抜いたのだから人生を完全に全うしたと言っていいだろう 覚悟はしていたのでさしたるショックは無かった

 

今年に入り49日法要を行う数日前に八代亜紀の訃報を聞いた

 

”そういえば ウチのオヤジ 八代亜紀の熱烈なファンだったな”

若き日のことを懐かしく想い出してしまったのだ

 

八代亜紀大全集みたいなカセットテープを購入して よく車の中で流していた(笑)

 

父親も15歳で故郷を離れ札幌で働いた 様々な職に就いたと聞いた 私のモノ心が着いた頃は大型観光バスの運転手をしていた

 

そういえば 八代亜紀といえばトラックドライバーのファンが日本中に居たな ウチのオヤジもトラック野郎ではないが肉体労働を生業とするブルーカラー系の労働者だった

 

学歴は無いが大型免許ひとつで高度成長期の日本社会を生き抜き生涯を終えた 私と弟を何不自由なく育ててくれた

 

僅か15歳で人生の勝負に出た八代亜紀という歌手はトラックドライバーや漁師等肉体労働者たちの生きる希望で有り 労働意欲を鼓舞する存在だったのでは そんな気がしてならない

 

それは幼少時から大スターだった美空ひばりとは決定的に違うところではなかったろうか

 

昭和40年代は頑張れば努力すれば成り上がれる 栄光を掴める 日本にはまだそんな夢や希望があった時代だった

 

 

日本音楽史上に残る名曲 「舟唄」

ラスサビの盛り上げ方がハンパ無いっす

 

昭和55年 日本レコード大賞受賞曲「雨の慕情」

 

思えば19歳の時に自分の我儘で家を出たため この年が父と母と一緒に見たレコード大賞と紅白歌合戦の最後の大晦日だった

その大トリで歌われたのも「雨の慕情」だった

 

父が大好きだった「おんな港町」

♪忘れたいのに 忘れられない 切ない恋よ♪

このサビの目線がまるで女豹のように妖しく美しい

 

25歳~26歳の頃か? 今の現役アイドルでもこのくらいの年齢の人は居るが チョット格が違い過ぎるな(-_-;)

 

 

これも父が好きだった「もう一度逢いたい」

 

ポニーテールが似合っていて とっても綺麗だ そういえば彼女は演歌歌手だが全くと言っていい程着物姿は無いはず ほぼほぼドレス姿だった その辺りも何か拘りがあったのかもしれない

 

画像

 

私事ではありますが亡き父を偲ぶとともに

 

演歌の女王 八代亜紀さんのご冥福をお祈りいたします