毎日新聞の社説では、都知事の発言を非難しています。
http://mainichi.jp/opinion/news/20120419k0000m070139000c.html
(引用開始)
社説:石原氏の尖閣発言 都が出るのは筋違い
(毎日新聞 2012年04月19日 02時30分)
沖縄県の尖閣諸島の多くは、埼玉県在住の民間人の所有だ。国がこの民間人と賃貸契約を結び、管理下に置いている。これを東京都が買い取ると、石原慎太郎知事が突然言い出した。領有権を主張する中国から尖閣諸島を守るため、という主張は威勢がいいが、領土の保全はすぐれて国の仕事である。都が出てくるのは筋違いというものだ。
(引用終わり)
私は、石原都知事が大嫌いであり、今回の言動も相変わらず困ったものだと思います。勇ましいパフォーマンスばかりが目立ちます。しかし、買収には都民の税金を使うつもりでしょうが、それを正当化できるのでしょうか。(私は東京都民じゃないのでいいですが。)
それはそれとして、尖閣諸島問題の経緯を確認してみたくなりました。
さすがWikipedia、この問題について非常に詳しく書かれています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C
でもこれでは詳しすぎて読む気にならないので、大事なところだけを要約・抜粋してみました。
(これでも長い?)
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・明治以前 明や清が琉球に属するとの認識に対し、日本の学者・林子平は中国領と考えていた。
いずれにせよ、どの国に所属するのか明確な認識はない。
・1868年 明治維新。王政復古、中央政府が江戸幕府から朝廷へ移る。
・1872年 琉球王国を廃止して琉球藩を設置。
・1879年 琉球藩の廃止を布達し、鹿児島県に編入。同年4月4日に沖縄県を設置。
国王(藩主)であった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられる。
・1879年 清国が琉球の領有権を主張。日本は先島諸島(尖閣諸島を含む?)の清国への割譲を提案。
しかし、日清戦争によりこの提案は撤回。
・1885年 実業家・古賀辰四郎が尖閣諸島での事業展開のため沖縄県に借地契約を請求。
沖縄県令は、所轄の標札建設を上申。
・1890/1893年 沖縄県知事が国標を建てる事を国に要請。
・1895年1月 日本政府が尖閣諸島の沖縄県への編入を非公開の閣議で決定し、正式に日本領とした。
しかし、この決定は尖閣諸島を今まで領土と主張した国がないことから周辺国には特に伝えられなかった。
・1895年4月 日清講和条約(下関条約)が締結される。清が台湾と澎湖諸島を日本に割譲。
※(tomam)これら1895年の出来事が事態をややこしくしたようです。台湾と尖閣諸島は隣接。
日本は尖閣諸島が日本固有の領土と認識しているが、中国・台湾は、尖閣諸島は台湾固有の領土であり、清が台湾とともに日本に割譲したものと現在では主張しているようです。
・1896年 日本政府が古賀辰四郎への30年の無償貸与を許可。
※古賀は鰹節工場やアホウドリの羽の加工場を設けた。
この当時の尖閣諸島には、一時は280名あまりの島民が暮していた。
・1920年 中華民国駐長崎領事より魚釣島に漂着した遭難者の救護に対し、当時の石垣村長らに感謝状が贈られる。 それには尖閣諸島のことが「日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島」と明記されていた。
・1932年 魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島が古賀に対し有償で払い下げられる。
・1940年 古賀が事業継続を断念。尖閣諸島は無人島になる。
・1945年8月15日 日本、ポツダム宣言を受諾。(太平洋戦争敗戦)
・1946年 「連合国軍最高司令官総司令部覚書」677号により、尖閣諸島を含む南西諸島の施政権が日本から連合国に移される。
・1952年 琉球列島米国民政府の米国民政府布令第六十八号「琉球政府章典」において、尖閣諸島は琉球政府の地理的管轄区域に含まれる
・1953年 中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』が資料欄において、「琉球群島人民のアメリカによる占領に反対する闘争」と題した記事を掲載。尖閣諸島を日本名で「尖閣諸島」と表記し、琉球群島(沖縄)を構成する一部だと紹介する。
・1965年 中華民国国防研究院、『世界地図集第1冊東亜諸国』初版出版。尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記。
・1968年 台湾のサルベージ業者が南小島で沈没船解体作業を琉球政府の入域許可を得ず行っていたことが発覚。退去させられたうえに、再度入域許可を得た上で残りを作業を続けたが、この措置に対し中国側および台湾側から抗議は無かった。(南小島不法占拠事件)
※翌年、台湾のサルベージ会社が尖閣諸島に入島する際、中華民国軍の出国許可証を取得し、琉球政府の許可を取っていた。
・1968年 日本、中華民国、大韓民国の海洋専門家が東シナ海一帯の海底を学術調査。「東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性がある」ことが指摘される
(現在では尖閣諸島周辺にはイラクの原油の推定埋蔵量の1,125億バレルに匹敵する、1,000億バレル以上の埋蔵量があることがほぼ確実とされている)。
・1969年
5月:中華民国当局は付近海域の石油採掘権をアメリカのガルフ社に与えると共に、「青天白日旗」を尖閣諸島に掲揚し、世界中の通信社に配信した。
5月10日~5月11日:琉球政府が石垣市に命じて魚釣島、北小島、南小島、大正島、久場島の5つの島に標杭を建てる。
中華人民共和国が、中国共産党が現在主張している「釣魚台」という呼称ではなく、日本が主張している通りの「尖閣諸島」と明記した地図を発行する。
・1970年 中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」で、尖閣諸島は日本領として「尖閣群島」という日本名で表記。
・1971年
6月11日:中華民国(台湾)が尖閣諸島の領有権を主張。
12月30日:中華人民共和国が尖閣諸島の領有権を主張。
・1972年
5月15日:沖縄返還協定が発効。琉球が日本に返還され、再び沖縄県となる。
7月28日:日中国交正常化交渉の一環として北京で行われた竹入義勝衆議院議員と周恩来国務院総理との会談の中で、周恩来が「尖閣列島の問題に関心がなかった」としたうえで、「石油の問題で歴史学者が問題にした」と述べ、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、付近に眠る石油資源が目当てだったことを認めている。
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その後の係争については省略します。
私は日本に都合のいい項目だけを抜き出していません。元のWikipediaについてはわかりませんが、恐らく同様であろうと考えます。
そうすると、1970年まで中国も台湾も尖閣諸島は日本の領土だと認識していたのに、石油資源が眠っていることがわかってから、急に領有権を主張し始めたことがわかります。中国の周恩来がはっきり言っている通りです。
それでも、国の利益のためにはウソとわかっていても強く主張するのが得策と考えているのでしょう。
それが国益を追求する外交の現実であり、お人好しで弱腰の日本人・日本政府ではしたたかな中国人にはなかなか太刀打ちできそうもありません。
石原都知事のやり方が正しいとは絶対に思いませんが、それでも歴史上正当な日本の領土である(←琉球が日本だとしてですが)尖閣諸島の近辺の石油および漁業の権益を中国・台湾にかすめとられないようにすることは、資源のない日本としては重要なことですね。
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