夕飯前のちょっとした空き時間を使って、今日は段ボールで工作。

チェコセンターの企画に応募する形で、「段ボールマリオネット」つくってみました。

 

紙コップを逆さまにして、そこに割りばしを突き刺し、段ボールをペタペタと貼っていく感じ。完成まで、30分くらいですかね。

楽しかったです。

 

 

学生時代は、ネバダの大学でアート学部の陶芸彫刻を専攻していました。一日中、ずっと粘土で作品をつくるの、楽しかったのです。

もともとは、人類学部のようなところにいたのですが、粘土遊びが楽しすぎて、途中で専攻を変えました。

 

今日は、粘土ではなくて段ボールですけど。

こうして、作品をつくることができるのは幸せなことです。

別に、ギャラリーに飾られることもないし、誰かが買ってくれることもないし、褒められたり感心されたりすることすらないだろうけど、こんな感じで身の回りにある材料で思い付きの作品をつくるのは楽しい。

 

できることなら、死ぬまで続けたいなと思っているのです。こういう、創作活動をね。

だから、「日曜アーティスト」を名乗って、ずっと趣味の活動を続けている。

 

好きなことがあるなら、好きを突き詰めれて、やり続ければよい。

仕事にするかどうかなんて、そんなたいしたことじゃない。好きならずっとやれる。それが、お金にならなくても。

いや、仕事ではないからこそ、余計に楽しく続けることができるのかもね。

 

それは、ものすごく幸せなこと。

 

年初に、隅田川沿いを歩きながら「こんな大変なご時世、自分にできることはなんだろう?」って考えた時に、次に振り込みがあった報酬を全額使って、今までお世話になった方々や団体に、寄付や支援をしてみようと思ったんですよ。

 

で、1月15日にWebメディアに寄稿した原稿料9,794円が振り込まれたので、そこに206円追加して、合計1万円で寄付や支援をしながら、noteに記事を書くという企画をやりました。

 

ちょうど1万円を使い切ったときの、まとめの記事がこちら。

 

 
寄付をするのが目的というよりは、そのお世話になった人にお礼を言いたかったのです。なので、その人との思い出や、背景のストーリーを書きました。
 
なにかをしてあげるというよりは、一緒に何かをしてくれたお礼だったり。応援だったり。そんな感じ。恩返しに近い。
 
限られた予算だったので、最後のほうは本当に少ない金額で恐縮だったけれど、5つの団体と7人の人たちに、「ありがとう」と「一緒に頑張りましょう」のエールを送ることができました。
 
それだけで、幸せ。
 

 

 

「幸せ」って永遠のテーマだと思う。いろんな考え方があるだろうし、そしていろんな切り口で分析することもできる。

幸せって、概念的で形のないものだから、それについて論じるのも抽象的になりがち。

幸せのカタチなんて、人それぞれだから。

 

というのを理解したうえで、「幸せのカタチ」についていろいろ考えていこう、と。昨年の夏にとりあえずこのテーマで100本のブログ記事を書こうとして、なぜか75本で止まっていたので、改めてそれを再開してみたところ。前回何を書いたのかはもう覚えてないので、改めてリセットして書いている感じだけど。

 

前回書いていたのは、それぞれの自分にとっての幸せと感じる瞬間を書き出していたと思う。

 

このテーマは、当然のことながらずっと以前から考えていたこと。誰もがそうだと思うけど。自分にとって幸せとはなに?何をしていれば幸せなのか?どんな道を進むべきか、とか。誰と一緒にいるか、とか。今日の食事や、週末の予定や、すべてのことに自分の幸せは関わってくると思うし、社会の一員、家族の一員、いろんなグループに所属するものとしては、周りの幸せも考えるだろう。

 

どうすれば、みんなが幸せになれるのか?

 

全員のわがままを聞いていたら、みんなが幸せになるのは難しい。限られた資源の中で、「自分だけ金持ちになりたい」とか「人より多くのものを手に入れたい」なんてのは、自分の幸せのために多くの人を不幸にするだろう。

 

そもそも、この社会のシステムが誰かの犠牲の上に一部の人たちの幸せが成り立っているのであれば、それは幸せな世の中とは言えないだろう。搾取する側とされる側。搾取される側が幸せになる唯一の方法が、痛み止めを飲んで不幸を忘れるというのでは、残念過ぎる。

 

幸せのカタチはいろいろある。だから、富を追い求めたい人はそれでもよいけれど。でも、その手にしたお金というは、もともとは誰かの財産だったわけで。それを効率よく大量に自分のところに持ってくるということは、必然的にお金をどんどん失う人が出てくるわけで。そんなループの中で、不幸な人もどんどん出てきてしまう。生きるためにお金が必要なのに、その必要最低限のお金すら確保できない人たちが。

 

ロサンゼルスでホームレスになりかけた時、別に僕は怠けていたわけではないし、必死で仕事を探していたけど、なかなかうまくいかなかった。零れ落ちてしまった歯車のように。うまく社会の中で機能することができなかったのは、単にその機会がなかったから。ほんのちょっとのグリッチで、不具合で、社会からこぼれてしまう。働く気はあるのに、仕事が手に入らない。ほんのちょっとのきっかけとか、機会があれば、自分の実力を示すことができるのに。そういう期間を過ごしたので、よくわかる。

 

頑張れば必ずしも報われるという世の中ではなくて、むしろ頑張れば頑張るほど搾取されるような世知辛い世の中だけど、でもやっぱり頑張らなければ小さなチャンスもつかむことはできない。とにかくとりあえず、がむしゃらに頑張り続けていれば、いつの間にか身の回りに奇跡が起こっている。あれから20年以上たって、幸い僕は仕事もあるし、家族もあるし、住む家や寝る場所や、食べ物も趣味も仲間もいる。これは本当に幸せなことなのだと思う。

 

決してお金に余裕があるわけではなく、むしろ普通の人よりも自由になるお金は少ないけれど、工夫をすればそれでも十分にこの社会で豊かに生きていくことができる。

 

年初に思いついて、今日までちょっとした企画を実行していた。寄付と支援で感謝を伝える企画。

次回は、それについて語ろう。

 

根源的な欲求が満たされたとき、人は幸せを感じる。

空腹のときに、何かを食べることができるのは幸せ。

睡魔に襲われているときは、ゆっくり眠ることができるのが幸せ。

どうしてもトイレに行きたくて仕方ないときは、ね。わかるでしょ。

いろんな欲があって、それは生きていくために必要なことで、それを満たすときに人は幸せを感じる。

 

人を好きになって、その人が自分のことを好きになってくれたらとても幸せ。

好きな人を見ているのが幸せ。そして、好きな人が自分を見てくれているのが幸せ。

愛する幸せ、愛される幸せ。

 

足りないものが満たされるとき、幸せを感じることができる。

 

反対に、不幸にならないためには?

空腹を忘れること。睡魔を感じないこと。痛みや不安を感じることがなければ、それは幸せなのだろうか?

 

幸せとは?

 

不幸でない状態のことを幸せと言うのなら、あるいは、感覚を全て麻痺させた状態は幸せなのか?

感覚を鈍らせて、酩酊している間は、不幸を忘れることができる。それは、確かに一部の人にとっては幸せなのだろう。でも、それって本当の幸せじゃないようにも思う。

 

仕事のし過ぎで残業続きで、過労死ラインをとっくに超えてもまだひたすら仕事を続けていると、やがて心身のバランスが崩れてくる。常に意識が覚醒している状態で休むことができない状態が続くと、やがて認識力が低下して疲労が蓄積していく。

限られた時間の中で効率的に眠るために、薬に頼ることになるかもしれない。感覚を一時的に麻痺させて、気絶させるように眠る。

 

「薬物依存」っていうけど、もしかしたらその人にとってはその薬が生きるために必要なのかもしれない。その薬があるおかげで平静をたもつことができるなら、安易に薬をやめるべきではない。と、思ったりもする。人それぞれ。体の外から一定の化学薬品を取り込み続けると、いつかはなにかが破綻する。だから、不要な薬は摂取するべきではない。薬品を体から除去するために、肝臓がやられてそれがもとで病気になったりもするだろうから。

 

最近、ようやく薬なしでも眠れるようにはなった。ちょっとしたバランスなのだと思う。就業時間に仕事を終えることができれば、そもそも睡眠のための薬は不要だ。

 

そうだね。人並みの生活ができて、きちんと夜に眠ることができれば、それだけで幸せなことなのだよ。

 

「寝るほど楽があればこそ、浮世の憂さも忘らるる」

 

「生きている」という実感。どんな時に感じます?

 

何かにチャレンジしているとき。あるいは、何かを達成したとき。

限界に挑戦しているとき、ふと生きている実感がわきあがってくる。

それを感じたくて、チャレンジをし続けているのかもしれない。

 

ゴールに向かってチャレンジしているときの方が、幸せなのかもしれない。

もちろん、目標を達成した瞬間はとても幸せだと思う。

でも、達成した瞬間にそこからなにか、虚無感に襲われるなんてことはない?

 

7月に、体重が92キロになったのですよ。外出自粛の期間で、過去最高に体重が増えた。

なので、そこからどんどん減らしていって、11月頃に目標だった80kgを切ることができた。

その過程はとても楽しかった。目標を達成できたのがうれしかった。

で、その後正月太りで少し戻っちゃったんだよね。今、多分84kgくらい。

92kgよりはだいぶ減ってるけど。80kgの頃と比較すると、あー、また太ったなって思うわけで。

 

目標に向かってチャレンジしているときの方が幸せだったかもな、と。

達成すると、その後にちょっとむなしくなったりするんだよね。

 

どっちが幸せなんだろうね。

 

幸い、体重が80kgを切った時、200万歩をあるくっていう目標がまだあったから、それにむかってチャレンジを続けることができた。1月にそれを達成して、で、今。ちょっと目標を失って失速しているかもしれない。1月の中旬に仕事がカオスになって、デスクの下に寝袋を敷いてそこで寝るというような生活が一週間続いて、散歩もできず、ブログも思うように書けず、なんだかいろいろぐちゃぐちゃになってしまった。一緒に仕事をしていたチームも退職者続出で空中分解のような。さて、これからどうするというような不安。

 

というわけで、週末に久しぶりにこのブログを再開してみたり。わからないけど、何か目標を立ててそこに向かっている間は、そのことに集中できるから。余計なことを考えずに、ひたすら前進できる。それってやっぱり、幸せなことなのだろう。

 

ゴールにたどり着いたら、また次の目標を見つければよい。登り切ったと思うなら、いったん降りてまた別の山を探しても良い。

 

死ぬまで一生、チャレンジをし続けられるなら、幸せだと思う。

 

認めてもらいたいという気持ち。「承認欲求」って言ってしまうと、ちょっと無機質な感じでよそよそしくて嫌なんだけど。

自分が鳥の巣の中にたくさんいるうちの一羽のヒナだとして。親鳥に自分の存在を認めてもらいたい。だから、口をあけて懸命にアピールする。

そういう気持ちなのだと思う。

 

自分の居場所を見つけたいと思うのも、そこにいるという自分を認めてもらいたいから。

「君のことをずっと見ていたよ」と言ってほしいのだと思う。それは、とても自然な感情。

 

仕事の肩書きを求めたり、あるいは、恋人を必要としたり。家族との関係とか、あるいは仲間とか。

 

「自分はここにいるよ」ということを伝えたいのだと思う。

自分の存在を認めてもらうのが幸せ。

 

不特定多数の人に知ってもらえるように有名になるのが幸せなのか、あるいは今自分の隣にいる人に自分の存在を知ってもらうことの方が幸せなのか、それはたぶん人それぞれだと思うけど。

 

自分にとって、このブログを書いていることも、ここにいることを誰かに気づいてもらいたいからなのかもしれない。

完全に自分のためだけに書くのであれば、普通にメモ帳に文章を書き続ければよいだけの話。こうして、アクセスがあるかどうかわからないけど一般に公開されているブログに書くということは、誰かの目にとまることを意識しているのだろう。その際に、決して多くの人にメッセージを届けたいとは別に思っていない。ただ、今これを読んでくれているかもしれない「誰か」に、その人に届けばよいと思っている。一人でもよい。あるいは、もしかしたら、誰にも読まれないまま埋もれるかもしれないけど、「読まれるかもしれない」という可能性だけでも良い。

 

ガラスの瓶にメッセージを入れて海に流すような。「自分はここにいるよ」ということを誰かに知ってもらうために。

 

 

 

この半年間、何をやっていたかというと、暇さえあれば歩いてましたね。家の近所を散歩。

隅田川の全長を歩いたり。東京タワーを外階段で登ったり。レインボーブリッジを歩いて渡ってみたり。

7月1日を起点にして、200日間で200万歩を歩くというチャレンジをしていました。

 

歩くことができる幸せ。これは、自分の体が健康で、きちんと動くということ。これから年を重ねて、老化していくと、当然体の機能も衰えていずれは歩くことも困難になってくる。少なくとも、今のように自由に歩くことはできなくなるだろう。

 

あるいは、体が健全だとしても、歩く余裕がなければ歩くことができなくなる。時間がないとか、忙しすぎるとかね。

 

なので、歩くことができるのは本当に幸運なことなのです。だから、歩けるときになるべくたくさん歩く方が良いよ。

歩くのがめんどくさいとか、疲れるとか言わずに。歩けるのは、今しかないかもしれないのだから。歩けなくなってから、「あのころもっと歩いておけばよかったな」とか思ってももう遅いからね。

 

だから今は、歩くことができて幸せ

 

去年の夏に、「幸せのカタチ」というテーマで記事を100本書こうと思って。で、75本書いたところでフェイドアウトしてましたね。

ちらっとだけ言い訳すると、8月にガラッと仕事が変わって。新しい案件を担当するようになったら、余裕がなくなってしまった、と。

あれから半年。そろそろ続きを書こうかな、と。

 

「余裕」って大事。ゆとり、たゆみ、あそび。ずっと張りつめていると疲弊してしまうから、適度に休みつつ、休憩を入れつつ、充電できたらまた走りだそう、と。

 

余裕がないと、幸せを感じることもできないよね。幸せを感じられるような、心のゆとりが必要です。

 

さて、というわけでこの企画を再始動。幸せってどんなカタチをしているのですかね?

 

 

これね。だいぶ前につくった作品なんだけど。5×5×5センチの立法体というルールで、いろんな人が作品をつくって、それを持ち寄って発表するイベント。Cube Etudeに参加した時のもの。

 

透明のアクリル板に、250の色名と、カラーコードを文字で刻印した作品。

透明なんだけど、250色のデータが納められた、カラフルな作品なのです。

 

 

 

 

 

これ、目黒のメーカーズベースで開催したイベントで。その後しばらくそこで展示してくれていたんですよ。で、いつの間にか作品が見当たらなくなって、自分もそこに預けていたことを忘れてしまっていたころ。たまたま、札幌を訪れる機会があって、そこのシェア工房を地元の人に連れて行ってもらったら、そこにこの僕の作品があった、と。

 

目黒のメーカーズベースの支店が、当時札幌にもあって、どうやら僕の作品がそちらに持ち込まれて展示されていた模様。知らなかったから、そんなところで自分の作品と巡り合うことができて、びっくりした。

 

そのご、キューブ仲間の人たちと、東京ビッグサイトで開催されたデザインフェスタにブース出展して、こちらの作品も何個か販売しました。

 

という作品です。作品をきっかけに、つながりが広がっていったり、偶然の出会いがあったりなど、そういったエピソードがとても気に入っています。

 

 

自分が体験したことをベースに、写真にからめて文章を書く。

ブログはだいたいそのスタイル。

 

けど、たまに概念的なことを書きたいこともある。もちろん、そういった時にも手元の写真を使うこともありますけど、時々写真や画像なしで書くことも。

 

例えば、「死について」とか書くときに、写真を使うことによって特定のイメージが付いてしまうのを避けたいときなど。画像なしの方が良いですね。

 

昔は、記事に合わせてイラストやドット絵などを描いてたこともありましたが。時間がかかるので、今はあまりやらないですね。移動中の電車の中で、スマホで書いてたりなどしてましたから。でも逆に、今ならできるのかな。今度、チャレンジしてみてもいいな。

 

落書きは好きなので、その「落書きをした」というテーマで書くときは、自分の絵を載せますが。

 

と、自分が契約しているフォトストックや、フリー素材から選んだり、あるいは「いらすとや」さんのイラストを使わせていただくことも。でもやっぱり、他人の写真や画像を使うのって、なんか居心地が悪いというか、できればやっぱり自分で撮った写真がしっくりくるのです。

 

という書き方です。ブログの場合は。

 

と、ここまで書いて、やっぱり画像がないとなんかしっくりこないので、キューブの作品の写真を載せておきます。今回の「幸せのカタチ」100本シリーズは、だいたい写真を載せながら書いているので。