If you're stuck in a cage and desperately wanting to get out of it, what would you do?

Screaming for a help? 

Or trying to figure out how to escape? 

 

Most of the time, screaming won't help much.  Unless you have a special voice that can blow away the cage.  

So, you'll be thinking what can you do get out from there.  

 

It could be a physical method.  Grab a spoon and start digging, or sandpaper to cut off the iron bar.  

There might be a way to get out by political solution.  In that case, you should start sending some letters.  

 

There's one more way to keep you free from the cage.  

Use you're imagination and think you're not trapped in a cage. Instead, think you're flying and traveling in your mind.  I know it wouldn't change a thing, but at least you'd feel much better.  Sometimes, only the time can solve the problem.  

 

I don't know what's the best way to solve this situation.  Maybe a bit of all.  

 

エクストリームな体験をするということ。普通の人が一生かかっても体験できないようなことをあえてすること。

信じられないような辛くて苦しいこともエクストリームだろうし、あるいは天にも昇るような幸せな体験も。どちらも。

 

幸せのバロメーターが降り切れてしまうほど、「もう死んでもいい!」っていう体験ができたら幸せだろう。

反対に、辛くて苦しくて不安に胸が押しつぶされそうになり、「もう死にたい」っていうのは明らかに不幸だ。

 

エクストリームの、両端。

 

どん底の不幸から、のし上がっていくことができれば幸せ。

一度手に入れた幸せも、それを保つのが不安になるようだったら不幸かもしれない。

 

いろんな波があるし、その波は一つではない。いろんな波が押し寄せては引いていったり。それが、人生なのだろうね。

良い波にいることを幸せに思うか、あるいはそれが当たり前に思ってしまうのか。

凪の心地よさは、嵐を体験しないとわからないかもしれないよね。

そういう意味で、嵐を体験しておくのも悪くない。その後の平静が幸せに感じられるから。

 

こうしてみると、幸せも不幸も相対的であると言える。けどやっぱり、普段から幸せを感じることができる人の方が、幸運だと思う。

不幸の中にいて、そこで我慢をしてしまうのか。あるいはそこから抜け出す努力をするか。

 

というところで、自分は今幸せなのかと問う。答えは、幸せ。

もちろん、不安や苦しみもいろいろある。アメリカ生活時代のつらい思い出が時々夢の中で蘇ったり。でも、総じて幸せだと感じるのは、逆にそういうどん底を経験してきたからだと思う。その体験があるからこそ、今の幸せをかみしめることができる。

 

そのうえで、今の生活にも不幸の種は散見する。それを以下に解消する努力をするか、なのだろうな。

小さな不幸の種は、なんとかすれば取り除けるし、取り除いた方が良い。

 

ひょんなことから、5年ほど前に船舶免許を取得しました。

ブロガーイベントで浜松を訪れ、そこでマリンアクティビティを体験して、「船舶免許を取得したら、こんな楽しい遊びが自分でできるよ」って教えてもらったので「じゃ、いっちょチャレンジしてみるか!」と。

 

船舶免許の取得自体は、そんなに大変なことじゃない。自動車の免許よりもよっぽどカンタン。きちんと勉強して、学科と実技の講習を受けたら、ほぼ9割以上の確率で取得することができます。

 

船舶免許を取って良かったと思うこと。

それはもちろん、ボートを操船して自由自在に川や海をクルージングできるという楽しさもあるのですが、一番良かったと思うのは人生の幅が広がったということ。実際に、ボートをレンタルして自分でクルージングをしたのはこの5年間で2回程度なのですが、友人の船に乗せてもらったり、あるいはみんなでボートを借りて花見なんてのは毎年やっています。

 

なにより、そこに選択肢が増えたということが大きい。

例えば、週末に隅田川沿いを歩いているときに、ふと目の前をクルーザーが横切ったとする。免許を持っていなかったら、それを見て「気持ちよさそうだなー」で終わりですが、免許を取ってからは「気持ちよさそうだなー。来週あたり、自分もボートに乗ろうかなー」ってい選択肢が増える。世界が広がる感じ。

 

必ずしも、ボートを借りて毎週末クルージングをしなくても良い。ただ、その「選択肢がある」というのが幸せなのです。

 

ちょっとの勇気とアクションで、その後の人生ががらりと変わる。

それを決められるのは、自分だけ。

 

誰もが、いつかは死ぬ。これは、避けられない。

限りある人生だから、どう生きたい?

 

A.悔いを残さないように、一生懸命に生きる

B.どうせ死ぬのだから、できるだけ楽をする

 

どちらを選ぶかは、人それぞれですよね。

 

僕は、小学六年生の時に、肺を壊して死にかけました。ある夜、突然肺に穴が開いてしまい、息が吸えなくなりました。胸腔に空気が漏れてしまい、横隔膜をいくら広げても肺の中にちっとも空気が入ってこない状態。あの時、少しでも呼吸をする努力をやめたら、僕は死んでいたかもしれない。自分の力を全て集中さえて、なんとか肺に空気を送り込もうとしていた。

 

翌日から入院して、なんとか治りましたけどね。

あの時、死を身近に感じて、僕が選んだのはAの道でしたね。死ぬ前に、なるべくいろんなことにチャレンジしたいと思うようになりました。

 

海外旅行にさえ行ったことがないのに、いきなりアメリカに留学したり。そして学生生活の途中で、突然アート学部に転部して、陶芸彫刻を専攻したり。卒業後、ホームレスになりかけながらアメリカ西海岸で職探しの旅をしたり。ロサンゼルスでのフォトグラファーの仕事、日本帰国後のプロバイダー勤務と、ウェブデザイナーの道。仕事も、そしてプライベートでの創作活動も。新しいことにどんどんチャレンジしたい。いつかは死んでしまうのだから、今できることはなんでもチャレンジしてみたい、と。

 

目指すのは、そういった生き方。すべてがうまくいくわけではないし、家族を養うためにそうそう冒険はできないけど。それでも、週末のささやかな時間でも、自分のやりたいことはできる。

 

今のところ、退屈しない生き方はできていると思う。

 

「死後の世界」について考えるとき、二つの考え方があるよね。

一つは、死んだ人がたどり着く世界。天国であったり、地獄であったり。三途の川の向こう側。

善い行いをしたものは、死んだ後も天国に行って、幸せに暮らせるよ。って、おとぎ話にもよく出てくる。

 

もう一つは、自分が死んだ後にも存在する、この現実世界。

たとえ今、僕が死んだとしても、地球はずっと回り続けるし、この世は存在し続ける。

自分が死んだ後の、この世界が、死後の世界。すなわち、未来。

 

自分が死んだあと、自分は天国で幸せに暮らせるかどうかは分からない。そういう世界があれば良いなとは思う。

自分が死んだあと、いつになるかは分からないけど、この現実世界の未来で、みんなが幸せに暮らすことのできる世の中が実現できていたら良いなと思う。その世界を、僕は目にすることはできないけど。そういう幸せな世の中を思い描きながら、この一生を精一杯、未来のために生きていくのは悪くないことだと思う。

 

今、目の前にある問題や課題に取り組みながら、みんなが幸せに暮らすことができる未来のために、生きたいよね。

 

 

 

差別の無い、平等な世の中が良いのだろうか?

努力した人も、怠けた人も、まったく同じ報酬をもらう世の中は、不公平だよね。

 

じゃぁ、差別の無い、公平な世の中は?

そっちの方がだいぶ良いと思うけど。でも、公平かどうかって、誰が決めるの?

結局のところ、公平かどうかをジャッジする部分に権力が集中したり、あるいは自己申告だったら自分だけ得しようとする「サイコパス」みたいな人が出てきたりするだろう。

 

みんなが幸せになれる世の中とは?

いろんな多様な人たちが、それぞれの才能を生かして、お互いを尊敬しあいながら生きていける世の中だと思う。

そもそも、差別という概念さえも吹き飛んでしまうほど、多様性を受け入れるということ。

 

子どもだったら子どもらしく、若者は若者らしく、老人は老人らしく、それぞれの個性や違いを受け入れて活かしつつ、より良い社会に向かってそれぞれができることをして貢献する。

 

言うのは簡単だけどね。実現できるだろうか?

もし目の前に腹を空かせている人がいるとして、自分が持っているパンを半分渡すことができるだろうか?あるいは、すべてのパンを渡すことはできる?

 

お金のない貧しい人が目の前に現れたとして、自分の全財産の半分を差し出すことはできる?あるいは、財産のすべてをその人に差し出すことはできる?

 

他人の痛みを自分の痛みと同じように感じることができれば。あるいは。

 

年末頃から、絵を描いているんですけどね。小さなスケッチブックに、建物のスケッチなど。

 

 

絵を描くのは好きですよ。白い紙の上に、ぐちゃぐちゃがちゃがちゃペンを走らせて、色を載せてく。

シンプルに、作る喜びを感じられる。なんだろね、この、衝動は。描くことによる、満足感というか。

自分の足跡を残すような感覚なのかな。この世に存在した証とでも言うような。

 

わからんけどね。とにかく、絵を描くのは好きなのです。

 

ジュウガツザクラという木がある。漢字で書くと、十月桜。その名の通り、十月から冬にかけて花が咲く。

近所を散歩すると、公園にこの木がある。それを知ったのは、去年の10月のこと。

 

桜のように派手ではない。美しく散ることもない。十月桜の木の下で、花見をする人は誰もいない。ただ、ひっそりと咲いている。

 

11月になっても、12月になっても咲いていた。満開になることはなく、でも花が絶えることもない。不思議な木だと思った。

十月桜のような生き方もよいかもな、と思った。

 

桜のように派手ではない。注目されることもないけれど。ずっとじっくりと咲いている。

 

期待をするから、それが裏切られた時に怒りやフラストレーションになる。

期待をしなければ、冷静なまま。

 

希望って、時にやっかいなものだよね。

絶望の中では人は幸せに生きることはできない。希望があるから、前向きに生きることができる。

ただ、時折その希望が虚ろになることがあるんだ。しらじらしい、空っぽの希望。

 

無駄に大きな夢は抱くべきではないのかもしれない。ふと我に返った時に、虚無感に襲われるような夢は、単なる妄想でしかない。

 

希望とか、夢とか、ポジティブに生きる上では絶対に必要なもの。

でも時として、その夢が重荷になる時もあるんだよね。夢を手放してしまえば、もっと楽に生きられるに、とか。嵐の中でおぼれかけているのに、大切な荷物を抱えている、みたいな。手放してしまえば、生き残れる確率が増える。そのまま抱え続けていたら、いつか一緒に溺れてしまう。

 

そこで思うのは、夢を失ってまで生き延びたところで、その先の人生に価値はあるのか?ということ。

ならば、一緒に波にもまれながら、一秒でも長く耐えていた方が、結局は幸せなのではないか?とも思う。

 

それは、多分、人によるだろうけど。その夢がどのくらい大切なのかは、人それぞれ。

 

僕がロサンゼルスでホームレスになりかけてた頃、もっと言うとその後にフォトグラファーの仕事を得た後も、この嵐の中で大切なものを抱えて溺れかけているような気分だった。これを手放せば、もっと楽に生きられるのに。でも、どうしても手放すことができなかった。

 

結果、今ではようやく嵐も過ぎて、夢を抱えたままでも普通に生きることができるようになった。決して楽ではないけど、溺れてしまうほど苦しくはない。あとはこのまま、ずっと夢や希望を抱きながら、自分の人生を自分が思うように歩いていけばよい。ずっと海の上かもしれないし、あるいは地上にたどり着くかも。もしかしたら、すでに地上にいて、山を目指して歩いているかもしれない。

 

大切なものであるのなら、どんな形であれずっと抱き続けたらよいと思う。

 

妄想と現実の境界。

 

自分が見ている世界は、果たして他の人にも同じに見えているのだろうか?

自分が思う自分の姿は、果たして他人から見る自分と同じだろうか?

 

自分ではなにか、すごいことを成し遂げていると思っているのに、他人の目から見たらなんとも取るに足らない、どうでもよいことのように映っているかもしれない。そんな風に想像すると、すごく悲しくなる。

 

主観とか、認識とか。人間の意識って、ものすごくあいまいでふわっとしているから。なかなか客観的にとらえることは難しい。

 

もし、自分が、周囲から理解されない「妄想」の中に存在するとして。その場合、自分の「幸せ」は単なる勘違いの思い込みなのかもしれない。けど、もちろん、自分ではそれを見抜くことができない。

 

夢の中で幸せな人は、ずっと夢の中に居続ければ一生幸せかもしれない。

認識力が低下した痴呆の人は、もしかしたら誰よりも幸せかも。

でも、夢が覚めるように、時々一瞬の「明晰」が訪れた時、それはものすごい悪夢だろうな。痴呆である自分を認識するのだから。

 

妄想の中でしか幸せを感じられない人は、もはやその妄想の中でしか生きられないのか?

自分が胎児にまで退行したら、幸せを保ち続けることはできるのか?いや、そこまで行くと、もはや幸せの概念すら理解できてないだろうが。

 

純真無垢であるがゆえの幸せって、あるかもしれないね。

耳をふさいでいれば、罵詈雑言は聞こえなくなる。

その代わり、大切な人の言葉も同時に聞こえなくなってしまうけど。