何がしたい?何をしている時が楽しい?

 

僕は、そうだな。なにかをつくっている時。アートだけじゃなく、デザインだけでもなく、日常の中のあらゆること。

旅行のプランを立てるでもよいし。休日にやりたいことを考えるだけでもよい。スケジュールや、ToDoリストや、机の上を片付けるということも、考えようによってはとびきりクリエイティブな活動だ。まぁ、実は僕、片付けは苦手なのだが。

 

コーヒーを淹れる。

勉強会のテーマを決める。

依頼された原稿を書く。あるいは、自由に自分のブログやSNSを更新する。

歩きながら写真を撮ったり。骨とう品のようなレンズをデジカメにつけてみたり。カプセルの部屋を全部まるごとカメラにしたりとかね。

 

今、何をしたい?

なんとなく、ここから抜け出して、外の空気を吸いたい。ワーケーションとか?やろうと思えば、できるはず。

 

わくわくすることを探したい。

 

というわけで、「幸せのカタチ」をテーマに100本目標で書いてきて。これがちょうど100本目。

いろいろ不安や悩みもあるけれど、今の自分は幸せだし、今後その幸せを脅かすものが出てきたら創意工夫で乗り越えよう!というようなことを再確認できたのは良かったと思う。

 

達観するような領域には達していないし、しょうもない欲望であくせくしたり、しょうもないことで落ち込んだりもするけれど。

まぁ、それもひっくるめて「人生」ということで。

 

この先、あと何年寿命が残っているのかわからないけど、日々を精一杯頑張って生きていけば、たぶん後悔はしないでしょう。

今のところ、良い人生を歩むことはできている。これからも頑張りましょう。

 

といったところで、100本目の記事はおしまい。ではまた。

別に、誰に読まれるでもない。ただなんとなく、意識にのぼってくる言葉を書き留めていくだけ。

「幸せのカタチ」について100本の記事を書こうと思った。今回で、99記事目。たぶん、計算が合っていれば。

 

昨年の夏に書き始めて、すぐに75本は書いたのだけど、その後しばらく放置してた。半年ぶりに、残りの25本を書こうか、と。

前半は、幸せに感じた事例を思いつくままにどんどん書いてきた感じ。

後半25本は、もう少し概念的な話。以前から思っていたことを順不同で吐き出している感じ。

 

これが正しいとも思ってないし、それぞれ一つの考え方でしかないし、誰かと議論する気もなくって、思考の断片をそのまま文字化しているだけだから、矛盾もあるし、おかしなところもあると思うけどね。とりあえず、吐き出せるだけ吐き出してみて、と。

 

書くために書く、みたいな感じで。

 

と、ここで「自分は幸せなのか?」と考える。

既に、「幸せである」とは答えたけど。もちろん、100%の幸せが一生続くことはあり得ないので、人生なんて幸福と不幸のパッチワークのようなもの。いろんな波にもまれながら、その瞬間瞬間にささやかな幸せを感じるのが普通でしょう。

 

くだらないことで悩んでいたりもします。お小遣いが少ないなぁ、とか。娘の風呂が長くて、いつも入れない、とか。体重が増えたからなんとかしないとだなぁ、とか。仕事の無茶ぶりが激しくてつらいとか。

 

やりたいことを思いっきりやりたいけど、現代社会に生きる大人としてある一定の時間は会社に奉公して収入を得ないといけないというジレンマがあり、それ自体は別に当たり前のことなので文句があるわけではないけど、ただ漠然とこのまま年をとってしまうことに不安はあるわけですよ。だからこそ、「日曜アーティスト」を名乗って趣味の創作活動をしているわけだけれど。

 

親友と呼べる人がいないというのも悩みだすかね。かといって、親友という存在を見つけるために何か努力をしているわけではなく、むしろ友人関係のごたごたも苦手だと思っていたりもして。わからないね。

 

本当に自由な時間を手に入れたら、僕は何をするだろうか?例えば、ポンと大金が降ってきて、一生働かなくても良いとしたら?

たぶん、こんな風に文章を書き綴っているだろうね。誰かに読ませるというよりは、自分の足跡をこの世に残すという感じで。工作をしたり、お絵描きをしたり、子どものようになにかをつくっていると思う。

 

いろいろ細かい悩みはあるけれど、死ぬまで作品をつくり続けていられるなら、僕は幸せです。

もし、それを邪魔するものが出てきたとしたら、僕は全力でそれを排除すると思う。あるいは、創意工夫でそれを乗り越えるだろう。

今までも、お金や時間の問題はそうやって乗り越えてきた。この先も。

 

またちょっと勧善懲悪の話に戻るけど。

悪い人がいたとして、その人を懲らしめるのは誰?という話。

 

「仇討ち」って、例えば「殺された父の仇!」みたいな感じで子供が復讐したりするよね。

辛い思いをさせられた人が、その痛みを相手に仕返しするために、復讐をする。

 

じゃぁ、その復讐でやっつけられた人の、子どもは?みたいなこと。

 

だから、間に「裁くのを専門にする組織」が必要になってくるのでしょうね。

悪事を働いた人が捕まって、罰を受けて、周りの人が「ざまぁ見ろ」って思うのかな。

自分の悪事を本当に悔いて、この先絶対に悪いことはしないと誓った人は、普通の善人よりもさらに善の心をもっているって、さっき書いたけど。罪を憎んで、人を憎まず、ってこと。

 

復讐が目的なら、被害者の家族が死刑囚の首を絞めればよいのかもしれない。でも、そこでさらに憎しみや怒りが拡散してしまうことになる。

だから、きちんといた「制度」があって、それを淡々と執行する人がいる。

 

改心する人は強いのにな。単なる罰になっていたら、残念だよね。せっかく、正しい善の道に進むことができるチャンスなのに。

 

あと2記事で100本だから、ここらでいったん止めておこう。

ちょっと疲れた。また、おなじところをぐるぐるし始めている。らせんのようにぐるぐる回って、コマが回りながら蛇行するように、なにかどこかへ進んでいく感覚。

 

あと4本で、合計100本の目標に到達する。

100本を目標に、「幸せのカタチ」について書いていく個人的な企画。

わりと昔から、このテーマについていろいろ考えることが多いけど、なかなかまとめて形にする機会のないまま。今回も、ただひたすらフリーライティングのスタイルで思いついたものをそのまま文章にしているだけだけども。なんとなく、自分自身の考えをまとめるのにも役立ってる。

 

さっきも書いたけど、25年前、いや、10代の頃からの考えとあまり大きく変わることもなく。ただ、少ししっかりとした輪郭は持つようになってきたかもしれない。ぼんやりとだけ見えていたものが、少ししっかりと細かいところも見えてきたような。

 

平等と公平についての議論は、その先にあるさらに違いを違いとさえ思わないような多様性を受け入れるというところが目標なのだと理解した。

で、最近の自分の中でのテーマは、多様性の中にサイコパスを含めるか、ということ。

 

それぞれ、人は自分らしく、個性を発揮して生きる権利がある。国籍や人種、あるいは性別に関係なく。LGBTも含めて、多様性を受け入れるべきだというのは共通認識として。では、そのくくりの中でサイコパスはどうなる?と。

 

相手の気持ちを全く無視して、自分の利益のために罪悪感もなく盗んだり、殺したり、犯罪を犯す人。あるいは、違法ではなくとも、人と人とも思わず搾取を繰り返す人。他人の不幸を何とも思わない、サイコパス的な考え方の持ち主。

 

幸せな世界をつくる上で、そういったサイコパス的な存在は障壁になるのではないかと思っていた。けど、よく考えたらそれも一つの多様性なのかな、と思い始めてきたところ。世の中の善や悪など、相対的であり、ある意味人があとからつくったもの。それを超越して、世の中を動かすことができる才能がある人は、あるい程度人の意をくまない、サイコパス的な要素がある人なのかもしれないと思うようになった。凶悪な犯罪者になるか、あるいは英雄的な人物になるか。どちらにしても、そういった個性も社会が進化していくには必要なのだな、と。その人を、友達にしたいかどうかは、また別の話。

 

人類が全員幸せになれるような、そんな理想郷は実現できるのか?と考えた時、そもそも人間はそんな理想郷に住むに値する存在なのかと思ってしまう。思いやりをもって、自分と同じように相手のことを大切に考えるというのは、人間には無理なんじゃないかな?とか。

 

ちょっと前の投稿でも書いたけど、人間は、相手の痛みを自分のものとして感じることはできない。

貧しい人が目の前に現れた時に、自分の財産の半分をその人に分け与えることはできるか?

もし、相手のことを自分と同じように大切に考えるのであれば、自分の持ち物の半分を渡すことで相手も自分も満足すると思う。

実際には、こんなことは起こらない。中にはそういう人もいるだろうが、レアケースだろう。そして、そのように心が優しい人は、この世の中では周りから搾取されまくって、幸せには生きるのは難しいだろう。心の清い、優しい人は、サイコパスのような人たちに良いように食い物にされる。実際に、そういう人を見て、すごく悔しい思いをしたことがある。

 

25年前にロサンゼルスにいた時も、こういうことをつらつらと考えていた。

幸せってなんなのかな、とか。幸せな世の中って、どういうものなのだろう?とか。

そして、われわれ人間はその幸せな世の中を実現できるのか。実現できたとして、そこで生きていく価値はあるのか?など。

 

25年経っても、自分の中であまり議論は進展していないし、答えが見つかるわけでもない。

でも、なんとなく少しずつ見えてきたこともある。妄想の中で理想を求めるよりは、しっかりと現実の中でより良い方向を見定めて、みんなで協力してそれを実現する努力をすべきだ、と思う。

 

そして、そのより良い世界をイメージしながら、今目の前にある小さなタスクをひとつずつこなしていくこと。

そんな感じですね。

 

で、今は何ができる?いきなり大きな変革をもとめているわけではない。例えば、何か親切にしてもらったら「ありがとう」とお礼を言うとか。そんなところから始めればよい。感謝の気持ちを手紙にしたり。何か支援やサポートをしたり。できるところから始めればよい。

 

してもらったことに対して、恩返しをする。特定の人に対してでも良いし、あるいはもっと不特定多数でも。世の中に対してのお礼など。

言ってること、ふわっとしてるかな。

 

少しずつ、ちょっとずつで良い。

 

勧善懲悪の物語を僕らはすんなりと受け入れることが多いけど、そもそも復讐はだれのためのもの?

猿に柿をぶつけられた蟹は、蜂や栗などの仲間を引き連れて猿に復讐をするのだけど、次は猿が蜂や栗に復讐をする番なのか?

 

悪を懲らしめる。

何が悪なのかって、実は味方によって判断が難しかったりするよね。

どちらがはじめた喧嘩なのかはわからないけど、お互いたずっと長い間やりあってたら、いつの間にか決闘に発展していたり。

小さい子供の喧嘩とか、誰が叩いた叩かないで、どちらかが泣くまでエスカレートするあれ。

 

殴られたからと言って、そのまま殴り返したら、その場の暴力が増えるだけ。パンチひとつから、パンチふたつへ。

復讐をすればするほど、暴力が増えていく。「あいつは悪いやつだ」と暴力をふるい、誹謗中傷であおり、懲らしめようとする。

 

間違った行いをした人は、自ら罰を受け入れるのが正しい。誰かに強制的に罰を与えられても、心から改心していなければ悪い心は残ったまま。逆に、間違いを犯した人でも、心から完全に悔い改めたとしたら、その後同じ過ちを繰り返すことはない。普通の善人よりも、さらに善の心を持った者ということ。

 

という風に思うのです。

 

 

 

神社にお参りに行って、「世界平和」をお願いしたとする。

その願いは、かなうだろうか?

その世界平和を叶えるために、自分ができることってなんだろう?

ただ単に、神頼みをしているだけでは、実現しない。

 

世界平和を達成するために、自分ができることを考える。

ほんの小さなことでも良い。世界の平和が難しいなら、まずは自分のうちの平和からでも。

喧嘩をして傷つけあうことを防ぐために、相手のことを思いやるとか。相手の好きなことを考えるとか。手紙を書くとか、なんでもよい。

小さなタスクを考えて、それを一つずつ実行するということ。相手に、自分の思いを伝えるということ。

 

国対国という関係だと、なかなかコミュニケーションがとりづらい。あから、草の根運動で相手のことを知る。

国のことを好きになったり、嫌いになったりって、そもそもその国にはとてもたくさんの人がいるのだから、その国に属しているから嫌いになるっていうのは乱暴な話だ。その国の人を知ってみよう。自分たちと、そんなに違いはないと感じるはず。表現方法は違っていても、その奥にある感情自体は変わらない。人を好きになる心とか、家族や子供を愛する気持ちとか。それは、全世界共通だと思う。まずは、そこから理解する。

 

対立をつくることで、チームが協調する。アメリカのように人種のるつぼの国は、何か共通の「敵」がいないと、一致団結するのが難しい。

ということは、地球がひとつにまとまるためには、国家間の争いよりももうひとつ大きな敵を作る必要があるのかもしれない。

宇宙人?いや、そういうことではなく。たとえば、人類を脅かす巨大な敵。悪魔とか、鬼とか、そういう悪の象徴。そういったものと全員が対峙することで、人々がひとつにまとまることができる。

 

国と国とが争うから、世界平和が実現できない。

戦う相手を変えてみたら?

 

例えば、SDGsとかでも良いよね。人類共通の課題に対して、みんなが知恵を絞って解決に努める。

昔から、宗教の世界では「悪」の存在があって、それぞれの手法でそれとの対峙の仕方を説いていた。具体的な行動であったり、あるいは心構えであったり。憎しみや怒りを乗り越えたところに、平和が訪れるのだと思う。