みどりの日。
連休中は海に近づかないつもりだったが、ついに我慢できず、いつもの浜へ暗いうちから様子を見に行く。
早暁の薄明のなか、燦爛たる紫雲の彼方に浮かび上がる荘厳な島々のシルエット。
紫から白、そして橙色に景色を染め上げながら、遠く大島から日が昇る。
ぼんやりと日の出を見つめながら、何の気配も感じないままひたすらリールを巻き続ける。
何故か、そのとき、深く脳裏に印していた記憶が次から次へと甦ってきた。
と同時に三十数年前の、長男が生まれた際の、人生全体が輝いていた頃の私へと意識が戻ってゆく。
今、あの島陰の向こう側で、昇りゆく曙光を一面に浴び、海面から少し沈みぎみに漂っている小さな円錐ウキをワクワクしながら真剣に見つめているのは、まだ将来に夢を託していた頃の若き私だ。
あの頃の、毎週のように通っていた大島の、様々な磯の上での情景がまじまじと目前に現れる。
沖磯で至福の表情を浮かべ嬉々としてグレ釣りに興じている若い私の姿に向かって、老いぼれた今の私はその姿を追い払うかのように思いっきりジグを投げ続ける。
次々と甦ってくる暖かい家庭の温もりや、充実感溢れる様々な仕事の場面や、仲間との喜悦に満ちた甘い記憶の数々を打ち消すように。
そして、そのうち、視線の焦点がぼやけてきた。
涙が溢れ、何も見えなくなった。
今のひとりぼっちの私には、海と魚と、自然を相手に一対一で静かに対峙できる孤独な石鯛釣りがお似合いだ。
五月中に一度は沖磯に行きたいので、丁寧に道具を手入れする。
すると、竿やリールの古傷ひとつ一つが過去の石鯛釣行の思い出に重なり、記憶の喚起剤として様々な情景が甦り、愉悦に浸り、思わず時を忘れる。
連休中のある日、隣の老夫婦から採れたての筍と、さやいんげんを頂いた。
早速、利尻昆布とたっぷりの鰹節で丁寧に出汁を引く。
それを味醂と酒と薄口醤油でじっくり煮詰めて高野豆腐に。
筍も、さやいんげんも柔らかくて高野豆腐もほんのり甘く、美味しい。
筍の根元の方は厚めに切って、同じ出汁を使って若竹煮に。
こちらも薄味で。この季節ならではの、薫風漂う初夏の心地よい香りが口の中で広がり、爽やかな味に包まれる。
お酒のつまみにも、おかずの一品にも万能で最適だ。
どちらも二、三日かけてゆっくりと食べ尽くす。
主食はやはり鰹の刺身。
まだ脂の乗りは薄いが、さっぱりとして噛むほどに口の中に旨みが増し、凝縮されて脳天まで響き痺れる。
コロナ関連のニュースで大阪の街がテレビに映っているのを見て、無性に551蓬莱の豚饅が食べたくなった。
ネット上で探す。餃子とセットのものが送料無料であったのですぐに注文した。
到着後すぐ、隣の老夫婦に豚饅5個を「ひとりではとても食べきれないので」と言って、先日のお返しをする。
餃子も半分は冷凍に。
期待を裏切らない老舗の本物の美味さを十分堪能した。
かんたろうは土間に降りて、ブラシでひとり遊びに夢中。
お米の袋を見つけて、スリスリ。
「お米大好き」と抱きつく。
ちょうど3年ほど前の出会ったばかりの公園でのかんたろう。痩せていて小さい。
私が帰ろうとしても、健気にいつまでもストーカーのようにずっとついて来ていた。
今は横になって動こうとしない、ときもある。
幸せか? かんたろう。
おやすみ、かんたろう。
ずっと、いつも一緒だ。
















