空と色、そして風の記憶 -2ページ目

空と色、そして風の記憶

ALSのこと最近知りました。そして58歳でALS患者の仲間入りです。
これまでの人生を感謝し、今日を精一杯に生きて行こうと思います。
生きているということは、生かされていること、そう思う今日この頃です。

さようなら食事

今日O先生が見えて先週行った飲み込み検査の報告した。
それによると、そうとう喉の機能が落ちているらしく食べたものが器官に入りそうな状態らしい。
そろそろ食事ともお別れの時期がやってきたらしい。
人間にとってもっとも基本的な機能が失われる。アー今となっては後の祭りかー(T_T)
カツどん、足利の先生のうった蕎麦、健ちゃんの握ってくれた鮨、うなぎも、博多にいたときに食べた烏賊や鯛、・・・いやーきりがない。
ぼくみたいに食い意地が張っているものにとっては死ぬより辛いのだ。!(*^.^*)


明日から最終クール
とうとう治験も最終になった。長くもまた短くもあった一年、ただ確実にいえるのは一年前の僕ではないということだ。
少なくとも一年前には一人で車に乗って病院まで来ていた。今は手足をもぎ取られ、そして言葉まで失ってしまった。
今は喉の力が無くなっており、食事を口からとれるのも時間の問題だろう。
今回の入院では簡易呼吸器の練習をするそうだ。終わりと聞くと嬉しくもあり、また何となく寂しくもある。


  覚めやらぬ 夢と知りつつ 朝露は
  揺らぐ光に まどろみの時


621]新社長の登場

こういう会社に突然地震が襲った。何と社長が替わったのだ。1992(平成7)春、幹部全員が突然召集された。いつもの会議室に白河社長に向かいぎっしりとつまっていた。開口一番社長が切り出した。

「今日は皆さんにとても重要な話しがあります。実はハートスタッフ社の社長が替わることになりました。」一同静まり返り社長の次の言葉を待った。

「次の社長は此処に座っている明智専務にお願いすることにしました。」その瞬間一同の視線が明智専務に注がれた。そして明智専務は黙って一礼した。それからは白河社長は何故今社長交代なのかの説明をした。つまりここ数年ハートスタッフ社は緩やかではあるが成長を続けてきた、これから更なる発展を目指すならば今のような私が社長を兼務しているようでは経営に支障をきたす。そこで専任の社長をたててハートスタッフ社を更に発展させていかなければならない。そして白河社長は自分は会長としてこれからもハートスタッフ社のために努力する旨を語られたのだ。

この会議を境に会社が大きく変わっていくのだった。しかしその時は幹部の誰一人として近い未来のハートスタッフ社を想像出来ただろうか。

その夜、幹部達は案の定夜が更けるまで渋谷の居酒屋で焼き鳥会議に夢中になっていた。

その中にぼくの姿もあった。


この「風の記憶天命編」はハートスタッフ社の白河社長時代のぼくを回想したつもりである。高度経済成長期の終演というべき時にバブルが崩壊して日本がこれから踊り場に入る節目の時代だった。今この頃を振り返るとぼくはハートスタッフ社に入り泥まみれになっていた。ここではその10%も表現できていないと思うが、本当に夜も寝ないで仕事をした思い出だけだ。しかし、この後社長が白河社長から明智社長になると会社もガラッと変わってくる。次はこの時代を回想してみたい。




620]酒と仕事の日々

1988(昭和63)10月入社から1991(平成3)の約3年間はハートスタッフ社は白河社長の時代だった。この頃白河社長はぼくが2832歳まで在籍したBS社の社長と兼務していた。ぼくはBS社を退職後3年他の業界を彷徨い気がついたらまた会社は違うが白河社長の元で働いていた。何か悟空がお釈迦様の手のひらの中を飛んでいるようなそんな感じだったかもしれない。このハートスタッフ社に引きずり込まれるように入社して、もがくように3年が過ぎようとしていた。

この頃ぼくは他業界転職に失敗して後戻り出来ない状態だった。ただ不思議にも後ろ向きにはなっていなかった。それこそ24時間働いていた。ゼロからの出発。物であれ組織であれ、そういう環境を与えてくれた白河社長に感謝していたし、どこかで天命だと感じていたのかもしれない。そういう白河社長にフォーカスした場合はそれこそ、それだけで物語になってしまうほどだ。白河社長を一言で言うと妖怪である。大魔王である。また天皇でもあり帝王でもある。ハートスタッフ社はこの大魔王または帝王がオーナーであった。

まるっきり私物の会社だった。だからその経営手法は鶴の一声経営で取り巻きは全て白河社長の顔色を常にウォッチングしていた。ぼくはそれが当たり前だと思っていた。しかし後年会社が大きく変わってくると、つまりいろいろな価値観を持った人々が入ってくるとこの一党独裁経営に疑問を持ち始める人もでてきた。それらの模様は順次書いて行けたらと思う。

さてこの3年間ぼくは一人課長として入社して素人ばかりの部下を持ち育てた。人の上に立つことなんか夢にも思っていなかったのに気がついたら部長なんていう肩書きを名刺に付けて夢中になって仕事をしていた。

年がら年中部下を叱っていた。年がら年中部下と飲んでいた。年がら年中上司や管理職の仲間と飲み、取引先の部長や課長とも飲んでいた。そして白河社長とも飲んでいた。白河社長という人は管理職とその辺の居酒屋にも平気で行く人で屈託のない話しをし、社員を笑わせたりしているが、アルコールの量が一定以上になると白河ワールドになってしまうのだ。まず赤坂や銀座の行きつけのクラブに社員を連れて行き散々飲めや歌えの大騒ぎの後、帰りは決まって近くのうどん屋でうどんを食べタクシーで帰るのだ。そしてぼくは白河社長宅までよく送っていったものだ。

いわゆる白河社長を親父としたファミリーを形成している同族会社である。こういう会社の特徴は社長以下の幹部が非常に仲がいいのだ。所謂出世競争がなく家族喧嘩は意味を持たない。逆に切磋琢磨は無く外圧に弱く全て長としての社長の力量によるところが大きい。

幹部同士で飲むと皆それぞれの言い分はあるが、いざとなると白河社長の顔色を見てしまう。

619]佐伯ひとみの退社

バブル崩壊後の不況も手伝い、ぼくは仕事の確保に全力を尽くした。山崎部長がいつしか居酒屋で言った言葉どうり一生懸命やっていれば誰かが見ていてくれる。そのとうり仕事はほぼ埋まっていた。しかし社員を守るといったことが逆目にでることもある。

その頃になると最初のプロジェクトも収束し、その実績を評価され同じ客の『宇都宮工場』のシステムに着手していた。殆ど同じシステムで横展開プロジェクトとよんでいた。

このプロジェクトマネージャーには佐伯ひとみを抜擢して以下数名を配置した。プロジェクト工程も終盤にさしかかる頃、ある事件が起きた。佐伯の元で働いていた水口というものが突然出社しなくなったのだ。終盤ということなので当然宇都宮で作業していた。佐伯から一報を受けぼくは急いで宇都宮に飛んだ。そして佐伯に会い事情を聞いたがそこで意外な話しがでてきた。つまり佐伯が退社したいと言い出したのだ。ぼくは愕然とした。


佐伯は出社拒否していた水口のことは、ある程度問題にはしていたがそんなに気にはしておらず、むしろ水口の作業分も佐伯がやってしまっていた。だから工程は遅れていないという。そして一通り話し終えると言った。

「ところで、実は折り入ってお話があります」と、やや声を落としながら話し出した。

佐伯の言うところに寄ると、佐伯はある原因不明の病気に掛かっており、その治療に専念したいとのことだった。話しを聞き終えぼくは相当ショックでしばし彼女を見られなかった。

それから2ヶ月程してプロジェクトも無事終了したが、佐伯は会社に来なくなった。

そしてある日彼女から会社に電話が掛かってきた。病院に入院するという。正式に退職をお願いしたいと電話の向こうで泣いていた。そして彼女の父親に変わった。ぼくは少し慌てて彼女の様態を心配したが父親からは申し訳ないと詫びている。本人は仕事を続けたがっているがと父親として当然の弁解をしていた。何でも彼女の母親と同じ病気らしいのだ。ただ母親は彼女が小学校の時にその病気が元で亡くなってしまったらしい。

この件以来ぼくはこのハートスタッフ社入社以来初めて寂寥感を感じていた。丸三年が過ぎようとしていた。ぼくの部はゼロから始まり30人を超えていた。その部のスターティングメンバーであり、実質ぼくの右腕であった佐伯の退職は組織としてもダメージだった。

前年に中途採用したBS社時代の谷本は津本部長の片腕の井口との共同プロジェクトにぼくの部から参加していたがぼくが期待していたリーダーシップは発揮せずにいた。

その年の秋にぼくは部長代理から部長に昇格した。

正直、ぼくは嬉しくはなかった。それより組織だけしっかりしているように見えるが砂上の楼閣にならないようにどうするのか、それがその頃のぼくの一番の悩みだった。


618]第三子誕生

4月になると第三子がそろそろ臨月になってきた。しかしその頃あるプロジェクトで大変なことになっていた。SL社から受注していた地図システムが大幅に遅れていたのだ。このプロジェクトを担当していたのは新人3年生になる長谷川が担当していた。ぼくはある日先方のH課長から呼び出されプロジェクト炎上したのだ。ぼくは一日かけて長谷川から説明を受けた。納期が2ヶ月後に迫っているのに、まだ全体の3割程度しか進んでいなかった。長谷川は比較的しっかりしていたので、ぼくは油断していたのだ。ぼくは真っ青になった。

翌日からやり直し作業に入った。川崎のユーザのビルで長谷川とぼくは連日徹夜の作業に突入した。下着はコンビニで買い3日に一度ビジネスホテルでシャワーだけ浴びる。まともに寝る時間は無い。もちろん家に帰ることなんかできるわけもない。

ぼくは全く妻のことを忘れていた。3週間程度過ぎ5月に入っていた。システムも何とか光が見え始めた頃、ぼくはふと家に電話した。するとぼくの母が電話に出た。いきなり「子供が生まれたよ!」と叫んでいた。びっくりしたぼくはしばらくして事の成り行きがつかめた。

三子が生まれていたのだ。それからのことはあまり覚えていない。システムは何とか納期に納める事が出来た。ぼくは兎に角家に帰り妻と三子の男の子に対面した。家ではぼくの母が実家から駆けつけてくれて子供達の面倒をみていてくれた。

こんなゴタゴタしているときに生まれたものだから役所への名前の届けも遅れてしまい、係の人におくれた理由を聞かれた。しょうがないので本当のことを言うと怪訝な顔で「もしかしたら家庭裁判所から呼ばれるかもしれませんよ」と言った。そう言われてもどうすることも出来ず、「そうですか」と応えるしかなかった。それでも帰りにしっかり記念の苗木をもらい家の玄関の横の空き地に植えた。今では三子の二倍近い高さまで成長した。その木はハナミズキの木でぼくの記憶では一回だけ白い花を咲かせたことがある。



617]仕事を探せ

もうこの年のぼくは何をやっているか解らなかった。肩書きだけは部長代理とかになっているが必死に仕事を見つけた。そういう意味では営業になりきっていた。つまりぼくの部を維持管理含め全てを行う人だった。しかし新規開拓という営業は普通の時でも難しいのにましてバブル崩壊後ではまったく意味がなかった。ある日、会社の帰りに山崎部長と居酒屋にいた。元気を落としているぼくに山崎部長は言った。

「あなた、自分でもう答えだしているだろ」ぼくは頷いた。するとビールを一気に飲み干すと言った。

「兎に角、諦めてはだめだ!考えろ、あなたの下には部下がいるんだ。その部下をあなたは守らなければならないんだよ。兎に角頑張れ!諦めるな、必ずどこかであなたを見ていてくれる人がいる。神は見捨てないよ」

普段がさつな山崎部長に励まされ、何故だか少し楽になった気がした。

そんな厳しい状況のなかでぼくは賭に出た。BS社時代の同僚の谷本(22)をスカウトしたのだ。そしてその友達の松野も採用した。この二人はぼくより年は若干下でSEとして通用した。つまりぼくの部の技術力を底上げし、プロジェクト受注につなげようとしたのだ。この作戦はある意味成功した。しばらくしてぼくのFC社時代のお客さんで仲の良かった古田さんから連絡があり仕事の依頼が飛び込んできたのだ。古田さんは外資系企業のDEC社に転職していた。ぼくは早速会いに行った。あっと言う間に話しはまとまった。CADの仕事で製品のカスタマイズが中心の仕事で、このプロジェクトに採用した松野と長谷部という若手をアサインした。そしてこのプロジェクトが思いがけなく大きく成長していくのだった。

そして山崎部長が大きな仕事をとってきたのだ。FOPE社(23)の運用監視システムで、3年はかかるシステムだった。このプロジェクトは大型コンピューティング技術とぼくのテリトリーのオープンシステムの両方の技術が必要だったので、津山部長のところの井口をはじめ5人と、ぼくの部から入ったばかりの谷本と4人を出し、計9人のプロジェクトになった。このプロジェクトマネージャーは井口が担当することになった。これでぼくの部はほぼ仕事が埋まったように思えたが甘かった。

ぼくの部の稼働率は90%を超えた。一見みるとこの不景気の中で順調のように見えたが、実は経験の無い者にも無理をさせていたのでこれが後々大変なことになるとは、その時のぼくには解らなかった。

616]バブル崩壊と新入社員

このバブル崩壊を境にぼくは仕事を探すのに非常に大変になった。せめてもの救いはぼくの部は全員UNIX&Cの技術者だけだったことだ。それと得意先に恵まれたことだった。国家プロジェクトの一員にぼくの部を入れてくれたのだ。しかし前年度に内定を出してしまった新入社員は困った。この件はハートスタッフ社だけの問題ではなく日本国中の会社が困っていたのだ。ぼくの部は8人に内定を出していた。そこで登場してきたのが山崎部長だった。ぼくに8人に面接して全員入社を辞退させろと命令してきた。ぼくはそれは出来ないと突っぱねると「それじゃその8人の仕事は確保できるのか?!」と頭ごなしに怒鳴る。ぼくと山崎部長の激論が何日か続いた。ついに折れることになった。とりあえず一人ずつ呼び出し面接を行い辞退を促したと思う。具体的には覚えていない。しかし最終的に3人が残った。山崎部長はこの3人を自分の知りあいのスポーツジムに派遣として出すことにした。この方針に対しても強く反発したがもう決めてきたとのことで致し方なかった。ぼくも疲れていた。3人が先方(スポーツジム)の面接から帰ってきた日ぼくは一人ずつ呼び出し話しを聞いた。3人のうち2人はそのスポーツジムへ移籍したいと言った。ここでも話しがずれたがもう気にしなかった。残る一人は自分はハートスタッフ社に入社したのだからハートスタッフ社で働きたいと申し出た。ぼくは胸に込み上げてくる物を感じた。ぼくはその一人、森本君(21)に言った。

「そうか…わかった。もういいよ、何とかするから」

結局この後、森本君は社内結婚して、17年後ぼくがハートスタッフ社を辞める時に課長に昇格させた。

泣いても笑ってもあと1クール

早いもので治験が始まって一年になろうとしている。
正直あらゆる意味でこんなに辛いとは思わなかった。
半月単位の入退院の繰り返しは生活のリズムがなかなか難しいものがあるし、病状がこんなに早く進行するとは思わなかったからだ。

先月まで出来ていた事が今月には出来なくなっている。この連続だからだ。そして病院生活のストレス。本当に涙が出てくるときもあった。
今年にはいり、それまで一番信頼していた治験看護師のKさんが退職してしまったりして、治験を継続する事を諦め様かとも考えた。
ただそういう悲しかったり辛いこともあれば、また楽しいひと時もあった。そのような月日もあと1クールを残し終わろうとしている。

半年も冬眠しているとだいぶ書くことがたまってしまって、何から書き始めようか迷ってしまう。

まずは身の進行具合からにしよう。

・球麻痺

だいぶ進行して、首を支えられなくなってしまった。

・言語障害

これが一番つらい。もうほとんど話せなくってしまった。

半年でいっきに進行した。恐るべきALSだ。

・嚥下機能

悲しくなるぐらい落ちてしまった。もう離乳食みたいな食事でないと喉を通らない。

注意して食べるのだが咽てしまう。肺活量も40%に落ちているのできれなくて苦労する。


・上肢~下肢

殆ど麻痺状態。体重激減。自分の足を見ると情けなくなる痩せ方だ。


*いろうの施術を行った。

3月に実施。といっても15分程度で、内視鏡を使ってやるやつで、げーげー言いながらやった。

なんでも肺活量のあるうちにやらないと駄目らしい。ぎりぎりセーフだったらしい。

そんな訳で今はまだ口から入れているけど、そのうちお世話になりそうだ。


   胃にストロー挿せばなにやら口寂しい


ということで僕の体も残るは呼吸筋だけになってきた。