書く予告をしていた、がん体験記。
ようやくその気になってきたのでいよいよ。
毎年、9月と10月は自分にとって天気や節目となる出来事が起きやすいのだけれど、
(なんでなんだろう?星まわりとか読める人に聞いてみたいほど)
ちょうど7年前、2011年の9月の終わりだか10月の初めだかに、
わたしは “絨毛がん” の告知を受けて、
治療を受けて、治って、
いまのところ再発や転移をしていない “がんサバイバー” です。
サバイバー、という表現には賛否があるけれど、
わたし的にはどっちでもいいので、わかりやすくその言葉を使っています。
そう。
このように、そんな表現が「どっちでもいい」と思えるほど、
がんだったことは自分の中で消化した出来事だし、
すっかり治った気でいるし、
治療していた当時に、「良いや悪いという思考にこだわることが不健康のもとなんだわ!」と気づいてしまったのです。
そんな人の体験話です。
当時のクリスマスパーティーにて。
ふざけた写真しか探せないなう...笑
すっかり治った気でいるけれど、
病後というか治療後、「寒いと身体がツライ」という体感はあります。
これは病気や治療の予後だからなのか、あるいは、
病気になる前から寒いのは苦手な体質だったのに、それに自分で気づくことすらできていなかったのか、は、
わかりません。
わからないけれど、
がんにんなる前は、なにかとそして当たり前に、我慢することや自分の体感を見て見ぬふりをしていたことがたくさんありました。
それこそ、暑さ寒さにもあまり文句を言わなかったし(日本には四季があるし、そういうものだし、自然だし、みんなそんな中で生きてるし)、
いまとなっては超苦手で絶対に避ける人混みや満員電車も「みんな当たり前に行くもの。乗るもの」と思い込んでいたから、当たり前に行ったり乗ったりしてた。
だから、自分の快不快を感じるセンサーがだいぶ鈍感になっていて、
当時は「自分がツライと感じていること」にも気づけない感覚感度だったのだと、いまとなっては理解できます。
(当然、当時は気づいてすらいなかったけれども)
だから、「寒いことがツライ」のが、病気や治療の予後の影響なのか、そもそもそういう体質だったのかが、
わからないのです。
そしてそれほど、「自分がツライと感じていること」にも気づけない鈍感感度だったから、
気づけないけれどもツライこと=ストレス(それは肉体面/精神面/両方の意味での負荷)がたまって、
それが臨界点に達して、
「病気」という形で現れたのだと、そういう理解をしています。
なんだかいきなり結論が出てきたけれど、
病気って、
正しい暮らしをしていなかったから、
身体に悪いものを食べていたから、
悪い生活習慣を取り入れていたから、
良いお水を飲んでいなかったから、
・
・
・
そういう物理的な原因だけでなるものではないとわたしは考えています。
というかそもそも、正しいも間違っているもありません。
良いもの悪いものもありません。
「身体に絶対に良い食べ物(物質)」は、本当に無いと思っています。
そもそも、良いものも悪いものも無いのだから、
「これを摂ったから病気になる/ならない」が起きない。
物や現象そのものはすべて、
良いものでも悪いものでも、良いことでも悪いことでも、ないのです。
もともと良くも悪くもないそれが、
人間にとって、良い作用をあるいは悪い作用を及ぼすようになる、のです。
伝わるかな?
良いものも悪いものもないのだけれど、どちらでもないそれを、
良いものにすることも悪いものにすることもできる、の。
それがなぜ起きるかというと、
物も出来事も受け取る側の人間が、「これは良い」「これは悪い」と思考で判断するから、
判断したとおりの作用が起きる、というだけ。
ものすごく雑に簡単にいうと、
「良いと思った(思えた)ものは良くなる」「悪いと思った(思えた)ものは悪くなる」
のです。
それだけ。
だから、どんなに身体に悪いとされているものでも、
自分が本当に好きで、それを飲食している間は本当に幸せに感じられて満足!なものは、
その人の身体に悪い作用は及ぼさない。
同じ身体に悪いとされているものを、
「これは身体に悪いんだよなぁ。食べたら良くないんだよね...。でもこの場で食べませんとは言えないなぁ...」と、心配や恐怖を抱えながら食べたら、やっぱり身体に悪い作用が起きると考えています。
逆に、「これは好きじゃけれど、身体に良いとされているから食べなくちゃ。食べよう」と感じつつ食べるものも、
どうせ良いようには作用しません。効きません。
だいたい、がんの告知を受けた当時、
すでにヨガの先生をしていたわたしは、「ストイックに正しくやる」にハマっていて、
お肉もお魚も食べない(できたら出汁も避けたい)レベルのベジタリアンをしていました。
告知前1年半くらいは、お酒も1滴も飲んでいなくて(学生のときは飲みすぎて記憶が無い日とかもたくさんある「呑める人」なのに!)、
ごはんは玄米を炊いていた。毎日。
他にもたくさんあって、白砂糖は避けるとか...とにかく色々色々 “正しく” やっていました。
(書き出してみて、自分のストイックさに感心するほど。よくやってたなー)
物と現象も、とても身体に良さそう!
ベジタリアンで玄米。理想的でしょう。
でも。
そのとき、がんになったから。
その後、がんサバイバーのためのヨガクラスを開催する中で、
様々な患者さんやご家族やサバイバーさんにお会いしてお話をうかがう機会がありますけれど、
超酒豪(だけど煙草は一切やらない)の方が肺がんになったり(本人が「肝臓がんならわかるけど肺がんだよ。納得できない」と言って笑っていたのが印象的)、
マクロビ食を貫いている人が亡くなってしまったり、
逆に玄米食に変えて病状が改善する人がいたり、
標準治療で治った、小康状態になった、という人も、
すべての治療を放棄して(どうせ死ぬから、って)念願だった海外の山に登りに行ったら、帰国後の検査でがんが消えてたという人も、います。
自分がこのような経験をして、
そしてさらにこれだけの人間サンプルを目撃させてもらっていると、
「もうわかんないな」
「良いものも悪いものもないな」
「決まったパターンはないな」
...としか思えない。
ただひとつ、わたしを含むお会いしてきた人間サンプルに共通して見えることは、
我慢したり、溜め込んだり、良い悪いにとらわれて自分で自分を裁いたり窮屈にしたり...
そういう「自分にとっての無理。辛いと感じること」を自分に強要していると、
病気という形が出てきやすい、ということです。
これは確信しています。
こう書くと、
「では病気になったのは自分のせいなんだ。自分で自分を抑圧してきたから、自分のせいだ」
とか考える人もいるけれど、
そこでまた、自分を窮屈にしたらダメなんだってば!
同じことの繰り返しになってしまうもの。
「これまでそう窮屈にしてきたこと」はそうしてきた事実。確かに事実。
けれども今、病気という出来事起きて、「あぁこれまで自分にたくさんの我慢をさせていたな」と気づくことができたら、
そこから自分に「これまで辛い思いをさせてごめんね」と詫びて、
「これからはそうはさせないよ」と改めて、これまでとは違う形で自分と仲良くしていったら良いだけです。
窮屈にしちゃってごめんね、
だから、これからは窮屈にはしないよ、
という、より良い方へ進む、いいかげん窮屈をやめるきっかけに、病気が現れてくれるのです。
なのになんでまた自分のせいだと自分を責めて「これまでと同じように自分を窮屈にする」かな? 意味わからん。
さっきの話に戻るけれど、
出来事も良いことでも悪いことでもありません。
それを良いものにすることも、悪いものにすることも、できるのです。自分次第で。
あの頃、自分で自分に気づかぬ負荷をかけていたことに気づけたのも、
スタジオ(AdhyatmaYoga)をオープンさせたばかりでまじでまじで毎日クソ忙しかった当時に「強制終了」という形だったけれども休暇をとれたのも、
その後サバイバーヨガクラスを開催できているのも、こうして体験談が誰かの役に立つのも、
がんになったからおかげさま。
だから病気になることが悪いことではない。良いことでもないけれど。どちらでもありません。
良いことにするか悪いことにするかは自分で選べるよ。
かといって、病気がわかって落ち込んでいる時に、無理に、
「これは悪いことではないんだ。良いことなんだ!」と偽ポジティブになる必要もありません。というか、偽物はダメ。
いま、そのときに「自分がどう感じているか」をどこまでも嘘なく感じ続けて、
そして自分の感じたことに嘘なく素直に従って、
勇気を持って行動しましょう、ということ。
自分の感じたことに嘘なく行動する、ってとても勇気がいること。
「自分に従う」と、世の中の大多数や常識からは外れてしまうことも多いから。けれども、それでも、
少数派になったとしても、誰かに何かを言われるかもしれないけれど、
自分が感じたことを信じて動く、のです。それは勇気がいります。
でも、そうするの。
病気をきっかけに、それを重ねて行き始めたわたしは、
いまこのように、元気に生きています。
いまこうして生きていることが、証明です。
この、がんだった話、書き始めたらまだまだ書きたいことと伝えたいことが出てきたので、
しばらくこのブログで連載します。飽きるまで。ネタがなくなるまで。
つづく
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そう。
それが病気前からなのか病後の影響なのかはわからないけれど、
「寒いはツライ」という “現在” の体感事実だけは事実なので、
日本が季節の変わり目のいまは暖かい国にいます。疎開。
自分を窮屈にさせない、無理をさせない、大事。