「相馬野馬追」、一昨年、昨年に続いて、今年も行ってきました。
福島県相双地方に700年近く前から伝わる伝統行事で、この地域の象徴ともいえる催しです。
古くは1000年以上前、平将門が領地であった下総国(現在の千葉県北西部)で、神事と軍事訓練を兼ねて、野生馬を捕らえる行事を行ったのが発祥といわれています。
その後、1323年、将門の子孫である相馬氏が奥州・行方(ナメカタ)郡(現在の南相馬市)に移り住むこととなりましたが、この時から700年近く、この地で毎年行われてきました。
江戸時代の飢饉の際にも、戦時中にも行われていたそうです。
2011年の東日本大震災では、この地域は地震、津波、そして東京電力福島第一原子力発電所事故により壊滅的な被害を受けました。
震災が3月11日、野馬追は例年7月末に行われるため、この年の開催は無理だと考える関係者が多く、実際主な会場である「雲雀ヶ原祭場地」は、7月にはまだ避難指示区域の解除がされず、使用できませんでした。
しかしそれでも、規模を縮小する形で野馬追は行われ、この地域の復興への志を示すものとなりました。
2012年には雲雀ヶ原祭場地も使用できるようになり、以前とほぼ同じ形で行われています。
3日間にわたって行われる「相馬野馬追」。1日目は「出陣・宵乗り」、2日目が「本祭り」、3日目には「野馬懸」神事が行われます。私は例年のように、2日目の「本祭り」を見てきました。
以前は7月23・24・25日と、曜日に関係なく日程が決められていたのですが、震災後は7月最終週の土・日・月に変更となりました。騎馬武者として祭りに参加する人のほとんどは普段は社会人ですので、参加しやすい日程にしたのだそうです。
「本祭り」は「相馬野馬追」の呼び物がたくさん。
まずは「お行列」。集結した騎馬武者たちが「雲雀ヶ原祭場地」へと向かうもので、一番間近で騎馬を見られる行事でもあります。
時折、馬と人の様々な表情が見られます。
馬と人の様々な表情。
勇壮な行列の中で、沿道から「かわいい!」の声が飛んでいました。
北郷・宇多郷・中ノ郷・小高郷・標葉郷の5つですが、そのうち標葉(シネハ)郷は現在の浪江・双葉・大熊の各町、ちょうど原発避難区域になり、今でも帰還できない地域です。
騎馬武者の多くは、避難先から駆けつけてきました。
その標葉郷の武者たちがやってきました。
20歳未満の未婚の女性であれば、騎馬武者としての参加が認められています。
避難先で亡くなったお祖父様の後を継ぐといって騎馬武者になったとメディアで伝えられた女の子ではないかと思われます。
子供の騎馬には大人の介添えがつくことが多いのですが、この子は自分で馬を操っていました。
相馬家33代当主・相馬和胤公の御次男にあたられます。
相馬野馬追の総大将は現在でも相馬家の方が務められています。
やはり堂々としています。
「お行列」が過ぎると、その後についていくようにして「雲雀ヶ原祭場地」に移動。
まずは「相馬流山踊」が披露されます。
この「流山」は、実は現在も地名として残っている千葉県の流山のことで、相馬氏の祖先が奥州に移る前に領地としていたことからこう呼ばれるのだそうです。
「流山踊」は、旧相馬藩の5つの「郷」が輪番で演ずるのですが、今年は原発事故避難区域となっている「標葉(シネハ)郷」。
「皆が元気に集まり、こうして踊りができることが嬉しい」という代表者の方のコメントが紹介されていました。
「流山踊」が終わると、呼び物の一つ、甲冑競馬。
鎧をつけた騎馬武者が1周約1㎞のコースで速さを競います。
この日のために練習を重ねてきた若者たちが、気合い・迫力満点のレースを展開しました。
鼻差勝負となるような接戦もあれば、他を大きく引き離して勝利する騎馬武者もいて、それぞれ練習の成果を見せていました。
写真では伝わりにくいですが、武者たちが背負った先祖伝来の旗差物が風を切る独特の音、そして馬が蹴立てる土埃、相馬野馬追の醍醐味の一つです。
甲冑競馬の後は、最大の呼び物「神旗争奪戦」。
花火を使って上空に打ち上げられた布製の「御神旗」。それが落下してくる所を、馬に乗ったままで取り合う競技です。2本ずつ20発、計40本の「御神旗」が打ち上げられます。
「御神旗」の行く先を見ながら、他の武者に先駆けて落下点に入り、さらにそれを乗馬用の鞭を使って片手で絡め取らなければならず、馬を操る総合的な高い技術が要求されます。それだけに「御神旗」を取ることは大変な名誉とされます。
今年はちょうど「神旗争奪戦」の時間にかなりの強風が吹き、打ち上げられた「御神旗」の多くが場外の観客席に飛び込んでしまい、次々と「無効」の判定を受けるハプニングもありました。
そうした中でも、一人で2本以上の「御神旗」を取る武者がいたり、2人の女武者が「御神旗」を取ったり、同じ花火で打ち上げられた2本を親子の武者が1本ずつ取ったり、標葉郷からの武者が取ったりと、観客を大いに沸かせる場面が多々ありました。
こうなると人の力ではなかなか止められないので、競技は中断。
馬が疲れるのを待って止めるしかありません。
勇壮な祭りならではのことでもあります。
「神旗争奪戦」が終わるともう「本祭り」も終盤。
各武者は「羊腸の坂」と呼ばれる曲がりくねった坂を登って、その上にある本陣に出向き、また降りてきて帰途につきます。
みんな顔つきが晴れやかです。
相馬の地で700年近く、発祥からは1000年以上の伝統を持つ「相馬野馬追」。
長い歴史の中で、その意味合いは大きく変わってきました。
騎馬武者を集めた軍事訓練と、馬を神社に奉納する神事の両面をもつ行事だということは発祥の頃から長く変わりませんでしたが、戦国時代は周囲の大勢力に圧迫され、江戸時代は豊臣系の外様大名として幕府から睨まれていた相馬氏の立場上、表向きは神事として行い、実際は軍事訓練をしていた、という時代が長かったようです。
しかし江戸時代、長期にわたって戦乱のない世の中が続くと、次第に藩主がこの地域の平和と繁栄を祈る神事としての意味が強くなっていったと言われています。
明治以降は当然、相馬氏独自の軍事訓練としての意味合いはなくなり、むしろ数百年続く伝統行事、文化財的な意義が高まりました。実際、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
またこの地域の象徴としての意味も持つようになり、「相馬といえば野馬追」といわれることも多くなりました。地元の人の意識の中でも野馬追いは特別で、かつて日程が曜日にかかわらず固定されていた時には、地域の企業の多くが平日でも休業していた(営業しても仕事にならなかった)のだそうです。
2011年の東日本大震災により、野馬追は新たな意義を持つようになりました。。
騎馬武者として野馬追に参加していた人の中でも、津波で亡くなったり、家族を失った方が少なくありません。命が助かっても、家や仕事場を流され、生活基盤を失った人は大勢います。野馬追のために自宅で飼育していた愛馬や、先祖伝来の甲冑や旗差物を流されてしまった人も多数います。
さらに原発事故により、標葉郷(大熊・双葉・浪江町)・小高郷(南相馬市小高地区)の住民は避難を余儀なくされ、未だに多くが帰還できない状況です。
また、今は解除されていますが、2011年の野馬追の時点では、主会場となる雲雀ヶ原祭場地が原発事故にともなう避難指示区域に含まれており、使用できない状態でした。
そんな中でも震災の年から野馬追は開催され、翌年からは元の規模に戻して行われています。野馬追を開催することは、厳しい現実に立ち向かい、地域の復興を目指す心意気を示すこととなっています。同時に、ずっと続いてきた、地域の繁栄と平和を祈るという意味も、大きくなってきているといえるでしょう。
相馬氏は、鎌倉時代から明治維新まで同じ大名が同じ領地を治め続けたという、非常に珍しい家です。現在でも旧藩主・相馬家に対する地域の人たちの敬愛は大きいのだそうです。
しかし、長く続いたといっても、その実は危機の連続でした。戦国時代には敵対する大名に攻められ、滅亡してもおかしくない状態に何度も追い込まれました。また江戸時代になってからも、飢饉や財政困難に度々見舞われ、取り潰しの危機が続きました。
それでも、相馬氏とこの地域の人々は、時として驚くような策を用いつつ、強かに生き延びてきました。
東日本大震災と原発事故の打撃は大きく、被災地の中でもこの地域の復興はまだ見えてもいません。それでも相馬の人々は自らの誇りを保ち、自らの力で歩んでいく、そんな心意気が、野馬追の勇壮な「戦国絵巻」には込められているように思えます。
「相馬野馬追」は観光の呼び物でもありますが、しかし観光客向けの行事としては、決して快適なものとはいえません。雲雀ヶ原催事場の観客席は直射日光を遮るものがなく、とにかく暑い。晴れて風がない年には熱中症で搬送される観客が続出します。
「お行列」は騎馬武者が間近に見られていいのですが、単なる見世物ではなくあくまで「大名行列」であるため、騎馬武者の列が途切れたところで道を横切ったり、建物の2階から見下ろすように見物したりしてはいけないというルールがあり、守らないと怒られます。
また、最寄り駅であるJR原ノ町駅を出た辺りから、馬の体臭や馬糞の臭いも立ちこめていて、慣れない人にとっては結構きついかもしれません。
しかしそれでも、相馬野馬追のために、全国各地から多くの人が訪れます。今年は4万6千人近くにのぼったとメディアでは報じられています。人それぞれに思いは様々でしょうが、やはりその地に赴くことで、野馬追に込められた心意気を直接感じ取り、同時にこの地域の平和と繁栄をともに祈りたい、という人が少なくないのではないでしょうか。
この地域を取り巻く現状は、やはり厳しいものがあります。
野馬追で滞在したわずか1日の間にも、それを垣間見ることがあります。
津波で北側、原発事故で南側を分断された常磐線はいまだに復旧せず、震災の日、上野に向かうはずだった特急スーパーひたちは、3年以上たった今でも原ノ町駅に止まったままです。
そうした現実に地域外の人が直接触れることも、野馬追による集客のひとつの意義だといえるでしょう。
安易に「頑張って乗り越えてください」などと言えるような状況ではありません。だからこそ、野馬追が開催される意義は大きいといえるでしょう。