1993年。
川上村のレタス農家で住み込みバイトしてました。
新卒で就職した会社を辞めた後、何をやっても上手くいかなくて、転職先はつぶれるし、近所のバイトも不採用になるし、貯金もだんだんなくなるし、メニエール病で片耳難聴になってもう治らないって言われるし😱、とにかくお金がないので「アルバイトニュース」で住み込みバイトの募集を見て、電話をかけたら「来てください」ということだったので、家賃3万5千円の大阪のアパートはそのままで長野に向かいました。
長野はもちろん初めて。塩尻で小海線に乗り換えて野辺山の次。信濃川上駅からバスでした。
ちなみにJR野辺山駅は標高が最も高いJRの駅です。
川上村のレタスの段ボールも「標高1200mの高原野菜」と印刷されています。
川上村は繁忙期は都会から若者のバイトを多数受け入れていて、私がお世話になったお宅は、実際に私が電話をかけた農園の親戚にあたるご家庭で、既に2名のバイトがいました。
●最近のバイトさんの手記↓
最近は日本の若者がやりたがらず、中国人が多くなったと聞いてましたが、コロナでまた変わったかな?
当時日給は5000円くらいだったと記憶しています。
3食昼寝付きです。
私の部屋は母屋の屋根裏部屋でした。
男子学生2人は離れのプレハブでした。
オーナーご夫妻と、息子さんご夫妻と、
計7人で作業をしました。
(息子さんご夫婦の若奥さんは、以前バイトで東京から来てた人だそうした。猛アタックしたらしいです)
朝に弱い私でも、あの頃は朝5時に起きて6時に軽トラで畑に出発する毎日でした。朝はもっぱらレタスを刈る。段ボール一つに大6×2段、小サイズなら8×2段入ってて、100ケースとか、多い時は200ケース出荷してました。段ボールには息子さんが詰めて、レタスを切る人は5人なので、一人当たり250個は切ってました。
切り口はそのままだと赤く変色するので、スプレーで水をかけるんですよ。そうしたら切り口が緑の綺麗なままです。
こんな感じ
レタス出荷作業は午前で終わります。
昼ご飯は、若奥さんが作ってくれてました。
それを食べて14時まで昼寝。
それから17時くらいまで苗の植え付けをしました。
大根とかグリーンリーフとか。
たまにお休みの日があって、
「小諸」に遊びに行った記憶があります。
あのあたりは「浅間山」が有名でした。
川上村の近くの「金峰山」にも登りました。
オーナーご夫妻が車で連れて行ってくれて、たぶん、金峰山荘まで登ったのだと思います。
夏は本当に忙しいんですが、10月くらいになると暇になるので、キノコ採り(りこぼ)や、飲食店で「ほうとう」を食べさせてもらいました。かぼちゃの黄色い汁に平たい麺!珍しかったな~
7月~10月初めまで3か月働きました。
38万円くらいもらった記憶…
これでしばらくは食べられると思いましたが、
大阪に帰ってもまだ苦難は続くのでした。。。
覚えてるのが、
この年の初詣のおみくじが「凶」だったんですよね。😞
1993年のことでした。
【追記】
長野県川上村で語尾の「~ずら」を聞いた時、感動すら覚えました。
「そうずら!」とか感嘆詞として普通に使ってて、内心、面白いな~と思って聞いてました。〇〇するずら!とか、
あの言葉、好きだったな~。