北条民雄「いのちの初夜」を読みました。若い頃から何度も読み親しんだ小説ですが、この年での読解は重さや衝撃がやはり弱化してきています。
ハンセン氏病・癩者を描いた日本文学史に残る名作です。
主人公・尾田の癩病罹患の悲嘆と、患者らの付き添いを務める患者・佐柄木の二人の苦悩を中心に物語が展開します。この二人は著者・北条の分身のようです。
入院での患者らの悲惨な状況に尾田だけでなく読者も衝撃を受けます。「奇怪な貌だった。泥のように色艶がまったくなく、ちょっとつつけば膿汁が飛びだすかと思われるほどぶくぶくと――」と臆することなく描き込まれています。
尾田は生きることの意味を失い、縊死を試みますが失敗。その場面を佐柄木に目撃されます。そして「自己に対して、みずからの生命に対して謙虚になりましょう」「とにかく、癩病になりきることが何より大切」「一度は屈服して、しっかりと癩者の眼を持たねばならない」などと説得します。尾田は新たな生を生きようとわずかながら光明を見出します。
しかし、佐柄木も実は苦悩の日々を送っていたのです。片目の生活。残る眼もいつかは癩に冒されるでしょう。彼は癩者として生を生きる意味を小説に書いています。しかし、構想の熟慮や失明の不安が筆を鈍らせるのです。完成まで間に合わない――そんな焦りに於かれているのです。
「いのちの初夜」で癩病は人としての人生を終わらせます。生きる意味を消失させます。しかし、尾田は佐柄木の助言を得て、過去を捨て癩を生きる、癩者として新たな人生を生きる覚悟のようなものを獲得します。
この「癩者を生きる」ということが読者にどれだけの訴求力を持って迫りうるか。膿に溶けるような死を迎えるために生きる――ということです……。
尾田は佐柄木に諭され、「癩者の眼を持つ」意志を獲得しようとします。いわば癩病に冒された自己を〝内側から〟見る目に加え〝外側から〟見る目を持とうとします。そこには癩を客観視しようとする意思が読み取れます。
一方の佐柄木。彼は自己の癩病の一生を文学に昇華させようと執筆に挑んでいます。「新しい人間を、今までかつてなかった人間像を築き上げる」との意思をもっているのです。しかし、これには癩を内側から見る目と外側から見る目が必要です。これも癩の客観化の意思が働いていると言えるでしょう。
二人は前述のように北条自身の分身です。二人に苦悩を預けているのですが、さらに癩病を客観化することで癩に対する恐怖心をそらしているようにもみえます。
文学は、人を恐怖心から救う武器なのでしょうか。
この「いのちの初夜」。昨日、Eテレ「100分で名著」に取り上げられていました。中江有里と伊集院光が分かりやすい解説合戦をやっていました。再放送ですが来週も続くようです。