このごろAIの進化形「チャットGPT」なる言葉をよく耳にする。企業や行政文書だけでなく、文脈の流れに対応した文字を打ち出せることから〝芸術〟的能力を発揮できるとされている。

 小説など虚実綯い交ぜの文章だが、第三者というよりも機器のAIが、さてどこまで著者の心の内を読み取り再生できるのか。原爆を書かずに原爆を主題にした文章など、登場人物の心の内まで、どうディテールを書き切るのだろうか。

 もしAIが原稿執筆を代行できるとして、それが当初の文脈に沿った続きの文章なのか、大きな展開をもたらす構想なのか、そんな著者の、そもそもの着想まで忖度できるAIということだろうか。

 このニュースを耳にして、思いついたのは日本文学史における明治文学の興りの顛末。江戸期までの戯作から、キリスト教に感化され、自我の目覚めを基本として世間を描く近代文学の産声まで。

江戸庶民に親しまれた洒落本、滑稽本、黄表紙といった義理人情のしがらみ、世渡り指南など今のエンタメ小説まがいを近代化するまでには明治も20年の年月を必要としたとされている。

 坪内逍遙「小説神髄」、二葉亭四迷「小説総論」、北村透谷「内部生命論」といった文学近代化の〝指針〟が熱い思いを持って受け取られた時代。〝個〟の目覚めを促したのはキリスト教であり、文学・演劇改革の動力として文学者らの関心をひき、こぞって当時、入信したとされている。

 その一人、明治初年の評論家・北村透谷の「内部生命論」は、当時の文学関係者らの心情を熱く映す評論としてよく知られる。

 透谷は言う。「戯文世界の文学は、価値ある思想を含有せし者にあらざること、文学の中に生命を説くの途を備へざりしが故なり」

 〝文学〟のなかに生命が宿っていない、と言う。

 「人間の生命の根本を愚弄すること彼等のごとくなるは吾人の常に痛惜する處なり」「彼らの多くは卑下なる人情の写実家なり」と、義理人情の世界を描く戯作を痛罵してやまない。そして「詩人哲学者の高尚なる事業は、實に此の内部の生命を語るより、外に出づること能はざるなり」「文芸上にて之を論ずれば、所謂写実なるものは客観的に内部の生命を観察すべきものなり」などと文学・演劇の本質なるものを烈々と説く。

 ただ、透谷の「内部生命論」も、その読解に幅があるようで、評論家・中村光夫は著書「近代の文学と文学者」で、意外にも「透谷は勧善懲悪を認めています」と断定する。「いわゆる自然主義作家ほどには狭く自分の世界を限らず、世の中と相かかわることが文学の使命だと思っていた(略)」としている。

 AIが将棋から今度は文学に手を染める時代。明治の黎明の時代は戯作の近代化に腐心した後に、イノベーションではなく革命的な改革を起こさざるを得なかったようだが、このAI時代の文学革命はどう成就されるのだろうか。