1950年代から70年代にかけて九州を拠点に活動した前衛芸術家集団・九州派を立ち上げた桜井孝身。彼の執筆・編集による資料・論考集を調べていて前衛芸術家・多賀谷伊徳(1918―1995)執筆のリポートに行き当たった。当時、福岡県で発行されていた地方紙フクニチの1968(昭和43)年2月21日付のコピー。

多賀谷は福岡県芦屋町生まれの前衛画家。「多賀谷伊徳氏の訪米みやげ話 四人の九州出身画家」として日本人が住み込んでいた東部ニューヨークと西海岸サンフランシスコの日本人作家らの状況をリポートしている。

 彼によると、のんびりと日々を過ごすパリの日本人画家に比べ、ニューヨークの若い作家らは「まず食うための闘い 敢然と米画壇に挑戦」と努力ぶりに共感を示し、「抽象絵画がもっとも愛されるアメリカでは、岡田謙三をはじめ川端実、草間彌生、白木正一夫妻、古川吉重などが活躍」などと抽象の勃興期を担う現地の日本人画家たちに注目し、称えている。

桜井孝身と出会うのは、後にサンフランシスコに回った折りのこと。多賀谷は「二人のつわものが待っていた」と、桜井孝身とオチ・オサムを挙げている。

 リポートによると二人は、多賀谷歓迎のため奔走。ビルの街角に歓迎パーティー開催のポスターを貼り、200人もが参加してくれたという。「桜井はサンフランシスコの地下水のような芸術運動を率いている立派な芸術家に成長していたのである」と驚きとうれしさがない交ぜになった感想を記している。

「いまから十年ほど前に岡本太郎と私が発掘した福岡の作家に、山内重太郎、オチ・オサム、桜井孝身などがいたが、彼らは九州派をおこし、読売アンデパンダン展に参加し、九州における前衛芸術の強力な推進エンジンになった。そのうちの二人、桜井孝身とオチ・オサムがサンフランシスコにでんとすわっていたのである」(「I DISCOVER JESUS CURIST IS A WOMAN」より)と、前衛派にとって希望の星だったことを証している。 

 その多賀谷伊徳の絵が私の手元にある。終活でコレクションの整理中に見つかった。版画に着彩とおぼしき1点。当時、美術を担当していた私を訪ねてこられた氏は、おそらく渡欧か渡米の成果の報告だったのではないか。もう記憶にない。

作品は縦63㌢、横47・4㌢の色と形の抽象画。三原色の持ち味を生かした色彩の構成で、太陽の下を白いロボットのような物が走る。師であり盟友でもある岡本太郎の「太陽の塔」のイメージが私の頭で重なったのだろうか。25年に大阪・関西万博を控え、新年の祝いに格好の飾り物となりそう。

 

天                        地