九州・福岡を拠点に活動した前衛美術家集団「九州派」は1957年、桜井孝身とオチ・オサムにより結成された。主要メンバーとして菊畑茂久馬、山内重太郎、寺田健一郎らの名があがるが、脱退・小グループ結成と組織は流動的だった。雑誌「美術手帖」2005年7月号は「九州という地域性・土俗性をもちながら、東京でも集中的に活動。アンフォルメル風絵画、オブジェ、インスタレーション、ハプニングと1960年前後の前衛のあらゆる手法を過激に実践」などと紹介している。
九州派を率いた桜井は当時、西日本新聞の校閲記者で労働組合委員長の立場にあり、一方で自宅の二日市では妻と児童絵画教室を開いていた。国内の美術界は岡本太郎らがアートクラブを結成(1953年)、吉原治良らは関西で具体美術協会を設立(1954年)と先鋭化。孝身の足下、九州・筑豊では三池炭鉱争議が日本社会を揺るがすといった社会状況の中での「九州派」結成だった。すべての在りようが〝ご破算〟と「革命」の時代だった。
中でも街頭でハプニングを展開する「ハイ・レッド・センター」(高松次郎・赤瀬川原平・中西夏之)は時代の象徴的芸術活動であり、極めつけは赤瀬川が細密画で制作した〝偽千円札〟の公開。これが芸術作品か偽造紙幣かを争う裁判となり、赤瀬川が勝訴するのだが、孝身は熱心に支援に奔走した。
パリでの孝身逮捕事件は、このような経過の中で起こされた事件であり、「不法滞在」という罪名と「美術家逮捕」はあまりにも国際的であり、赤瀬川の闘いに心酔していた孝身には「次は俺だ」との意識が強く働いたとも推測できよう。起こされた事件ではなくまさにパフォーマンスであり〝起こした〟事件のように思える。
当時、孝身はパリにマンションを持ち、特定の画廊に支援されながら制作、毎年パリ行を重ねていた。その回数は関係者の記憶では1975年から2005年まで毎年1回、合わせて約30回にもなる。不意を衝かれた何か〝意図的〟な逮捕だったようでもある。
当時、支援者への手紙に「名称は裁判パホーマンスと一応つけているが、逮捕されて6月15日までの生活、考えたこと、友人へのコンタクトのすべてであります。日本人として、作家として根底から問われたワケであります。『無罪』の判決の出た今日、それはやはりフランスの文化の高さを証明するものであり、今後、ココム事件同様、日本人として文化のレベルアップをこころがけねばならないと深く教えられました。あらためてフラン文化の高さに敬意を表します。」と孝身らしからぬ神妙さで、支援へのお礼を述べている。
さて、そんな彼が後年、作品制作に劣らず心血を注いで世に出した書籍がある。それが1987年10月20日、櫂歌書房発行の「I DISCOVER JESUS CURIST IS A WOMAN」(360ぺージ)である。逮捕事件を美術家のパフォーマンスに転換した行動の全容
が明かされ、九州派と自身の美術論を説いている。内容は次回㊥で紹介したい。
詩人・俣野衛編集の機関誌「九州派」1号の表紙の「宣言」。編集後記に「会員が文章に不慣れなためもあって寄稿が少なかったので西日本美術展出品者の感想と、桜井君のエッセイを中心に編集した」などとある。(昭和32年9月1日発行)