長崎外国語大の客員研究員、松田雅子さん(非常勤講師)が文芸雑誌「西九州文学」(年2回刊)に小説「舟を待つ頃」を連載した。認知症の父親介護の記録に、父親自身の手になる未完の自分史を織り込んだ〝親子共同執筆〟のノンフィクションノベル。文芸における戦争体験継承の一つの試みとして注目した。

 「舟を待つ頃 第1部」(同誌45号)では、認知症の父親介護に明け暮れる娘・早季子(著者)の不条理な日々が描かれる。父親は頑固一徹者。転倒してけがを負い入院。いよいよグループホーム入所を迫られ、家族で準備に入る。その折、父の書きかけの「自分史」の原稿を発見した。少女時代の早季子には「平和祈念像のように巨大であった」父親だが、一方でその像はミステリアスな靄に包まれてもいた。早季子は、その靄を晴らす一助になるのではと父の自分史を読み始めた。

                     

 父親の「自分史 第一章 最後の旧制高校」の要旨。

 長崎の港町に生まれ育ち、青春時代は戦争の真っ只中。旧制中学校1年の時に支那事変が勃発。昭和16年に中学校4年に進級。飛び級で旧制東京高等学校の入学試験に挑み合格した。試験最終日の校長面接で「君の作文はよかった。独特で個性がある。頑張れ」と試験の日に早々と合格を言い渡された。学生同士、対抗意識に燃え、探求心を刺激し合った寮生活や、京都帝大への進学を目指して漢文学を専攻したことなど、自分史では自身の優等生像が明かされる。

 しかし胸を患い帰郷、養生した。父親の勤める造船所では超ド級の戦艦が建造されていた。

再び学生生活に戻ると4月、最高学年の3年生になり、卒業は翌年4月の予定だったが、戦雲急を告げ、年内の昭和19年9月30日、旧制高等学校文科を繰り上げ卒業、10月には京都帝大へ進学した。そして再び帰郷。陸軍第二軍第一六方面軍高射第四師団高射砲第一三四連隊に入隊した。

 不思議なことに、入隊の日付は9月10日となっていた。高等学校卒業前である。帝大学徒ではなく、「最後の旧制高校学徒」として入隊したのだった、と自分史は記している。