長崎生まれの英国人作家カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞第一作「クララとお日さま」。イシグロファンの皆さんは、すでに読み終わったことでしょう。

 今日付けの朝日新聞「天声人語」が梅雨の晴れ間にことよせて、太陽光の恵みを主要なモチーフとしている同長編小説を取り上げています。

 長編「クララとお日さま」の主人公〝人工親友(AF)〟ロボットのクララは、太陽光のエネルギーを恵みにしています。その意味では人間と同じですね。そして悩み多き若者たちに寄り添い、援助することを任務としているようです。

 クララを気に入り母親に買い取ってもらった女の子ジョジーは、実は大気汚染による病いで、いよいよ死の淵に置かれます。だが、クララの〝お日さま〟への必死の願いが通じ、太陽エネルギーでジョジーは生還できました。

 物語は、このクララとジョジーを巡る母親の愛情や、男の子リックとの友情が、ロボット・クララの繊細な眼差しにより炙り出されて映像のように描かれるのです。

 同作はいくつかの興味深い内容に彩られています。中でも、当然ながら〝ロボットと人間〟が主要テーマでしょう。

 ロボット文学といえばアイザック・アシモフの「われはロボット」とカレル・チャペックの戯曲「ロボット」が古典的名著として知られています。

 SF作家アシモフは人間をミクロの大きさに縮小して体内に潜航させ、施術した後に体外へ帰還するという人間のロボット化(サイボーグ)をテーマにした娯楽小説もあります。

 そしてアシモフは、ロボットを文芸のテーマとして扱うにあたって、人間との共生を前提に「ロボット三原則」を提案しました。①ロボットは人間に危害を加えてはならない(安全)②人間に服従しなければならない(服従)③1条、2条に反しない限り自己を守らねばならない(自己防衛)。

 ロボット文学の〝現代史〟を眺めると、チャペックの「ロボット」では、工場労働者の代用としての没個性のロボットたちが描かれています。結局は工場主・使用者に反乱を起こす群団としてのロボットたちです。続いて私は、イシグロと同じイギリスの作家D・インストールの「ロボット・イン・ザ・ガーデン」と続編「ロボット・イン・ザ・ハウス」を読んだのですが、両作では、少々難がある旧式の箱型ロボットが主人公。夫婦の諍いで荒れ模様の家庭に舞い込み、その古い出来の悪さ、とんまな仕草が親しまれて家庭不和を和らげるといったホームコメディです。続編「ーハウス」では、「ジャスミン」の名の付いたバスケットボールのような丸型ロボットが加わり、2体を作った悪徳科学者の影も濃くなってきます。

 この流れで気付くのは、社会的存在としてのロボットの描き方の変化というか深化です。チャペックは「労働者群団」の代用として描き、インストールは「家族」の代用であり、そしてイシグロはこの新作でジョジーという女の子「個人」の代用、すなわち「個」の身代わりとして描いています。この三つ目の「個」。どこまで一人の人間の個性を写し取れるか、追求できるか。個人の尊厳を侵すことの是非が問われます。

 この<個の尊厳>の描出はアシモフの時代には構想できなかった新しいロボット像といえ、イシグロも今作では個の身代わりの可能性について結論を出していません。「ロボット三原則」も「四原則」として、個の身代わりにおける約束事を定式化する必要を感じるのです。

 カズオ・イシグロは人間的かつ前衛的ですね。

 「天声人語」は小説の表紙のヒマワリにも触れています。英語で「サンフラワー」。家庭園芸で私の蒔いた種も、6株成長したようです。今度こそ梅雨の大雨をやり過ごせそうです。