春の小川の隅田川~と口ずさんで、アレ!隅田川は小川だった?
「春のうららの」が正解、「花」でした。
「春の小川」なら「さらさらゆくよ」ですね(童謡「春の小川」)。
それはともかく、住まいのある里山に向かい、いつもの町道(旧農道)を通っていると、ミカン畑沿いを流れる小川の溜まりにゴリが2匹、上目遣いに睨みを効かしているではないか。1匹は約3センチ、もう1匹は5センチの大物。
はるか遠くの琴の尾岳から、昔は田畑を潤し、今はミカン園を清めながら流れ下り、この生活圏に達した溝のような小川。チョロチョロとまさに歌いながら流れる。あと100㍍ほどで長与川だ。小さいゴリは動かずにカメラのモデルになってくれたが、大きいゴリはサッと消えた。
4月の声を聞いて、長与自慢の桜の風景も葉桜の準備を始め、ソメイヨシノに緑色の絵具が加わった。長与川は立派な花筏で賑わっている。
傷む腰を落して溝を覗き込む私の額にも、じんわりと汗がにじむ。
先ごろ長崎大学内で、出島オランダ商館医シーボルトがドイツに持ち帰った日本の川魚の分類を検証する講演会があった。
その中で、今、中央の都市の住民の間で「里川」が提唱され、町中の川の再生が試みられているとの話があった。里山ならぬ里川。「自然環境が生きた生活圏」が里山なら、「自然環境を生かした川」ということか。
そこで私は「里町」を思いついた。本物の自然が存在する町、生きた自然と共生する町である。住宅団地の造成も自然環境を考慮した区画割が必要だろう。緑も本物が大事だ。そして建築材も地元の樹木を生かしてほしい。長与町の町づくりにそんな思いを重ねたのだった。
そこでまた、私の緩い脳みそが跳んだ。意外なところに「里町」のモデルがあったのだった。
先ごろ、県美術館で開かれた建築家・隈研吾展。彼は建築材に鉄筋やコンクリなどではなく自然素材を提唱。木材をふんだんに使ったアイデア溢れる建築デザインを紹介していた。無機質ではなく有機であり、形状も水平・垂直ではなく「斜め」。いわば、近代以降の既成概念の構造・構図ではなく、〝もう一つの目〟で建築素材を料理する、ということらしい。
これに私は「里町」を重ね、一人合点したのだが、さて、どうだろう。ゴリ君こんにちは!