「ヘーゲルが体系的、客観的、普遍的な真理を求めたのに対して、キルケゴールは実存的、主体的、個別的な真理に固執した」。松浪信三郎著「実存主義」よりの引用。

 実存主義文学を調べようとすると「実存の哲学」を覗くことになる。キルケゴールがその曙光のようだ。事の発端に触れようとするとキリスト教の教義に触れざるを得ない。そしてドストエフスキーが待ち構えている。

 日本の近代文学はキリスト教から始まっている。「個の発見」から新しい日本文学の曙光が訪れた、とされている。個に目覚めた明治初期の知識人たちはこぞって受洗。個の復活を遂げ、近代文学の担い手となった。以後、なだれを打って棄教。だが、ひとり国木田独歩のみが、そんな神を裏切る振る舞いを悔いる文学を残したと、佐古純一郎が「宗教と文学」に書いていた。

 そのキリスト教に端緒を持つ実存主義文学の流れに対し、日本文学は根強い独自の世界を醸成、文学史を彩ってきた。中国や日本の古典。白秋や龍之介、川端や谷崎、三島らにその形跡を見ることができる。

 以前、福岡県のある長老詩人が大江健三郎のノーベル文学賞受賞の話を振った私に「あの人はフランス文学だからね」と、別世界のことのように応答されたのを印象深く記憶している。当の詩人は「山峡の詩人」といわれ、山住みの人々の日常と風土をモチーフに命の大切さを情感豊かに詠っている。別世界といえば別世界だが中国文学・日本の古典文学に造詣の深い詩人のように思う。

 芸術は芸術のみに生きて死する世界と確信するのだが、文芸界では哲学の深みにいかに到達し、新しい哲学論の確立に資するかといった「何かのための」経験論、あるいは護教主義、実存主義のプロパガンダが待ち受ける。解釈の固定化。もちろんカフカやカミュに罪はなく、評論者らの時代的制約による限られた視野のためのように思う。

 原爆の長崎では短詩型文学が盛んだが、多彩な結社が文学の世界を彩り、充実させている。主題も動機も題材もなんと豊かな風土であることか。モチーフの強さが〝主義〟を圧倒する。

 「実存」ではない何か、「疎外」ではない何か、さらに「無化」ではない何か。その先にあるもの。あるいは足元の裾野に広がっているもの。社会の変化、科学の進歩が新しい文学的世界、文学論を生み出す条件を整え、登場の力を備えているように思えるのだが、私だけの夢想だろうか。小説家たちの開拓者精神を援護し、読者を励ます新しい何かを、評論の世界から送り出してほしい。読書の愉楽を広げてほしい。 

 芸術は鑑賞者のためにある、と勝手に思っている。自由な読み解きを、いかに保証させてくれるか。「想像」「記憶」をさらに想像させるウイングの大きさ、広さ。これは、文学に限らず芸術の価値を決める要素の一つではないか、などと妄想している。