昨日の新聞各紙の一面コラムは、サービスや運営内容をまともに決定しないまま、見切り発車した「GoToトラベルキャンペーン」を取り上げていた、と言うより、やり玉に挙げていた。

 読売「編集手帳」は同キャンペーンを取り仕切る赤羽国交相を、八つぁん・熊さんと一緒にして落語の一席の粗忽者のひな壇に並べていた。

 国交相の一連の発信方は、いかにも粗忽者に相応しい。同キャンペーンは、コロナ禍の勢いが増す東京発着の旅行について、急きょ対象外とした。「23日からスタートする」「いや、都民は対象外」と赤羽国交相、のっけから大慌てだった。そのうえ、対象外となったキャンセル料の「保障はせず」と言う。ぬか喜びを飛び越えて、あきれ果てる都民。すると今度は「キャンセル料の保障します」と舌の根の乾かぬうちに前言を翻した。いかにも粗忽者の態。

 毎日の「余禄」は、同キャンペーンを江戸時代の「お伊勢参り」に譬えて期待感をにじませていた。先人たちのお参りは、宿場町の大歓迎があり、食料、路銀など施しを受けながらの道中だったという。で、この令和の「お伊勢参り」も途上の町々の歓迎を受け、名所・旧跡を訪ね、食事をすることで散財しながらの旅、だったはず。余禄士は、GoToキャンペーンを令和の「おかげ参り」に譬えて景気回復の期待をこめたコラムにする腹積もりだったようだが、実際の成り行きは「感染拡大」「繰り上げ無理押し実施」「キャンセル料」などなど、騒動のタネのばらまき状態ーってなわけで、元々、キャンペーンの趣旨は何だった? 忘れそう、と読者に問い掛ける。

 そして長崎新聞の「水や空」。同キャンペーンを「何かにつけて急ごしらえ」「混乱の極み」とあきれ難じる。実際そうだから仕方ない。国交相の迷走発言に眉をひそめ、広がるのは感染ばかりといった現状に落胆気味の様子だ。それでも「今しばらくは感染状況の雲行きを気にしながらの移動になる」などと、キャンペーンの趣旨の広がりに期待を込める。そして最後に「『GoToトラベル』の文字に旅情が足りない気がして」とズバリ、事の本質を言い当てて閉める。

 そう、この旅情だ。1980年前後だったか、国鉄(現JR)の旅のキャンペーン「いい日旅立ち」は現役引退後の夫婦の二人旅を当て込んだ商品だったが、同名の楽曲を山口百恵が歌い大ヒットした。もちろん50代以後の夫婦の姿が駅ホームに行き来し、列車の旅もヒットした。

 「青春18きっぷ」も懐かしい。今もある、と最近知った。夏休みなど長期休暇を当て込んだ少年向け(大人も可)のJR旅商品。普通列車の乗り継ぎで達成する列島縦断のワクワク旅だ。友達同士、また子供の独り旅。いずれにしろ親から自立を促す名商品、と私は思うのだが、今も売り出している、と聞いた。

 旅は心だ。傷んだ心を慰め、回復させ、充実させて、また日常に還る。少し前とは違う人間になっている。この旅の本質を踏まえずに、あたかも旅を、即カネを目当てにしたモノのように扱った売り物が「GoTo」ではないか。カネの流れだけの思慮の浅いキャンペーンではある。