コロナ禍の拡大で、アルジェリアの文学者カミュの長編「ペスト」がリバイバル人気といいます。「ペスト」の文庫版を書棚に探していて、ふと思いました。
〝確か「ペスト」関連の赤い表紙の稀覯本的古書を手に入れていたはずだが…〟
表紙カバーの暗く沈んだ赤色が記憶に薄っすら残っていました。
さて、どこに仕舞い込んだのか。積み重ねた書籍の壁の底の方に発見しました。スウェーデン生まれの医師で作家アクセル・ムンテ(1857-1949)の紀行文集(自叙伝)「サン・ミケーレ物語」(1936年英国刊)。表紙カバーの赤地に青の帯が印象的です。「紀伊國屋書店発行」が目に留まり手に入れる気になったのでした。
「紀行文集」といえば余りに実録的で衝撃的。「記録文学」といえば余りに抒情的で芸術的です。その「ナポリ コレラ大流行」の項目がカミュに「ペスト」を書かせるきっかけとなったされているのです。
日本語版の第1刷は1965年5月10日ですが、私の手元にあるのは同年6月25日第3刷分です。忽ちのうちに日本国内でも注目となったようです。
国内に紹介するきっかけを作った医師・近藤駿四郎氏の「日本語版への言葉」に「1900年代のヨーロッパのよき時代を舞台にして、ひとりのスウェーデン人の医師の眼を通して描かれた、ヨーロッパの人と生活の記録である。その眼は鋭くまた暖かい」とあります。
思い出しました。私が手に入れたいと思ったのは訳者・久保文氏の「あとがき」にあった次のような文章。「開高(健)氏はヨーロッパ旅行中ムンテのこと、〝サン・ミケーレ物語〟のことをしばしば耳にされたそうだ。とくにカミュが力作〝ペスト〟をこの物語のナポリのコレラ大流行からヒントを得て書いたということは周知のことのようだ」。
今思います。日本国内で「ペスト」読了者のどれだけの人々がこの事実を知っていただろうか。久保氏は続けて「同氏(開高健)がこの書に深い関心を寄せられ、日本での出版のことに、ベトナム戦争従軍の旅への出発間ぎわまで心にかけ、ひとかたならぬ配慮を惜しまなかった」と記しているのです。
さて、「ナポリ コレラ大流行」の項から。若い医師がその鋭い視線で、まるで手術のように切開して見せたコレラ蔓延の街のありさまの記述を、ほんの一端だけ紹介します。
「かれらはなん時間も、なん日も仮死状態で生きていた。眼は大きくあけたまま、口も大きくあけたまま、死人のように冷たくなってー」「いく人が生きたままその穴へ投げこまれたろう。なん百? たしかにそれくらいだった。かれらは生きているのだー」
「夕方宿にかえると、わたしは、着物もぬがず、体も洗わず、帰ったままの姿でベッドにたおれこむほどに疲れていることが、しばしばあった。このきたない水で洗うことになんの意味があろうー」
「ねずみにひどく噛まれた百人をこす男、女、子どもたちが、この侵入の最初の日にペレグリニ病院に収容された。数人の小さなこどもは、食いつくされたといったほうがあたっていた」「ねずみたちが父親の死骸を音をたててかじっているのをわたしは聞いていた。--ねずみたちは今度は、足やすねを、がつがつ食べはじめたー」
そんな悲惨な現実の中、看護に努める尼僧たちも倒れ、次々と葬られていきます。作者ムンテは絶望的な現実に、気持ちが萎え、ただひたすらに彼女たちに救いを求め、もがき苦しみ、さらに、ある一人の若い尼僧に心を寄せる。そして、この自身の弱い内面にも鋭くメスを入れます。
今日ただ今のコロナ禍の日常、医療従事者に頼ったままの暮らしぶりを反省させられます。
訳者・久保文氏はムンテについて「人間として、医者としての厳しさの中に、快よいユーモアとウィットが馥郁としてこの書のいたるところにみちあふれている。この書が書かれたのは、第一次世界大戦中からその後にかけての年代のようであるが、これはかれの青春の自叙伝であって、英国では英文学の作品の一つにかぞえられているということである」と「あとがき」に記しています。和訳当時、日本でも、このような「不条理」を主題とした作品が若者たちの心をつかんでいたようですね。カミュファン、「ペスト」愛読者に必読の1冊でしょう。写真はムンテと愛犬