「インドの風土病だったコレラが、初めて長崎に上陸したのは、安政五年の夏である。感染源はアメリカ艦船ミシシッピー号の水兵だった。コレラ菌は長崎で増殖し、たちまちのうちに蔓延していった。」

 これは小説「蝶々さん(上)」の(六)の冒頭。コレラの長崎初上陸の時期の設定に作者、市川さんの手が入っています。史実は文政五年、1822年のはず。長崎新聞の連載企画「長崎と感染病の歴史(上)」にも、そう書いています。では小説はなぜ? 恐らく作者は物語を一気に幕末に設定したかったのだ、と解釈せざるを得ません。

 さらに「感染源はアメリカ艦船ミシシッピー号の水兵」の件。この出来事の史実は1858年、安政五年のことで、こちらは明らかに幕末です。

 作者のこのような〝虚実ない交ぜ〟の書きっぷりは幕末から明治かけての外国艦船の相次ぐ長崎入港とアメリカ水兵たちの上陸を、読者に印象付ける意図からだったのでしょうか。

物語の時代背景は幕末・明治に入っています。後に蝶々さんの夫となるアメリカ海軍少尉、フランクリンとの出会いの御ぜん立て、背景造りともとれる記述です。

 それはさておき、「蝶々さん」のコレラ大流行の場面。小説では明治十八年、1885年に設定しています。まだ少女の蝶。深堀の城下の村に祖母みわ、母やえと野菜を売って暮らしています。この日も野菜舟で炭鉱の島・高島に向かったやえとみわ。しかし、上陸した二人が見たのはコレラ蔓延の地獄図。現地の医師の奮闘ぶりを見て去るわけにはいかず、患者の手当てに一夜を明かした二人だったが、感染してしまった。

 同じ日、コレラ禍は長崎でも同様だった。下痢、吐き気を訴える病人が続出。お蝶は高島に渡った母と祖母のことが心配でたまらない。もう一人の祖母しま達と三人、堤防に立ち、野菜舟の影を捜し求めて沖を眺める。

 一方、高島の母やえと祖母みわは翌日、どうにか船を出すことができ深堀を目指した。だが、二人を吐き気と腹痛が襲う。「やられたとでしょうか」「そがんごたるね」。

 愛しい蝶の待つ岸壁まであと三キロ程。先に船着き場が見える。お蝶が心配して立っているにちがいない。だが、祖母やえは櫓を動かさず「お蝶のもとには行けません」。みわも頷く。

「お蝶には、うつされん」「舳先ば変えてもよかですか」

「沖にでましょう。漕げるうちに」「できるだけ深堀から離れんばね」。

 後に、野母崎沖で、自害した二人の女性の遺体を乗せた舟が発見されます。母みわが先にやえの喉を一突きした後、自らの喉を突いた、と。

 作者の市川森一さんは、この物語を通じて、お蝶ら伊東一族に息づく武士道精神を描いたと理解できます。コレラ禍はあくまでも、主題を浮き彫りにするための重要なモチーフ。物語を構成するエピソードとして時代背景など造り変えて引用したのでしょう。ドラマトゥルギーのなせる業と言わねばなりません。

 私の感動は、指呼の間に見える愛する孫、子を目の前にして、舳先をはるか沖に向け覚悟の死出の旅に向かった祖母と母。二人の心情に思いを寄せてのことでした。命を落としての自己隔離です。講談社文庫

 そして、美しい母を幼い日に亡くした体験を持つ、作者・市川さんの心の内を思ってのことでした。