時間が少々、遡ります。4月19、20日付「長崎新聞」の文化面に「長崎と感染症の歴史」の連載特集がありました。その(上)を読んでいて感銘とともに、ある記憶が蘇ったので紹介したくなりました。

 連載では、一面肩に医学史に詳しい長崎大名誉教授、相川忠臣氏のインタビューと同氏の著書とを参考に導入記事を掲載。文化面にメーン記事を繋いでいます。

 特集の企画主旨は、「鎖国下の江戸時代、海外に開いていた長崎はとりわけ、国際感染症の侵入にしばしば悩まされた歴史がある。同時に、最先端の西洋医学が最初に伝来し、国内の感染症対策をリードする地でもあった」と一面の導入記事にあるように、日本の西洋医学導入の窓口となり、先進的な役割を果たした長崎の特異な歴史を振り返り、新型コロナウイルス対策に資することのようです。

 一面を受けた文化面では、「天然痘」「コレラ」「スペイン風邪」といった出島移入の感染症の列島蔓延の歴史を、感染症ごとに症状など詳しく紹介しています。

 私は「コレラ」の項目に注目しました。

 出島オランダ商館長ブロンホフの1822(文政五)年の日記を参考に、日本初上陸の細菌感染症コレラ大流行の様子を描いています。さらに開国後の1858(安政五)年、「長崎に入港した米軍艦ミシシッピー号の乗組員から広まったとされる」コレラが再び大流行。この治療と予防に尽力したのが1857年に長崎に赴任したオランダ海軍軍医ポンぺだったといいます。

 記事では、ポンぺの日本医学近代化への貢献ぶりも紹介していますが、私はコレラの項目を読んでいて、脚本家の故市川森一さんの長編小説「蝶々さん(上)」(講談社)の感動の場面が蘇ったのです。

 その場面は「明治十八年夏は猛暑だった」で始まる。まだ幼い娘の伊東蝶ことお蝶(後の蝶々さん)と母やえ、祖母みわの三人が深堀の武家屋敷の路地に住み、野菜舟を炭鉱の島、高島に漕ぎ出だして暮らしていた頃の話です。(つづく)長崎新聞より