60年安保闘争の国会突入で圧死した東大生・樺美智子さんの父・樺俊雄さんは著書「最後の微笑み」(文芸春秋新社)でこう言われている。

「娘が二度とは自分の手に戻らないということを意識したとき、激しい怒りの感情も湧いてきました。その怒りを何に向けていいのかわからないが、娘を失わせた何か或るものに向かっての怒りであることだけは、はっきりしています」。

 私は現役時代、大勢の人々と飲食を共にする交流会に出席したことがあった。

その席で、有名企業の社長が挨拶に立ったのだが、彼の言葉に驚き、未だに腹に据えかねたままにいる。

 マイクを手に、腕まくりをするような仕草で左右を見やりながら、彼が放ったその言葉ーー。

「破壊した。壊したが、さて、次に何を造るかだ」彼は一瞬、間をおき得意げにフンフンと考える仕草を見せた。私は茫然と眺め、その後、彼が何を話したか記憶にない。いずれにしろ学生運動の闘士を装った言葉と理解できた。

 樺俊雄さんの「娘を失わせた何か或るもの」とは、こんな族を言うのではないか。それが有名企業のトップなのだ。今の企業社会、こんな世代でなっていると思うと絶望的になる。

 詩人、山田かんさんが強調していた問い掛けの言葉に「人間として」がある。

 私たちは、〝社長として、議員として、貧乏人として〟などと、同じ個人であってもその時々の置かれた肩書・立場により、考えや行動を変えることを容認しているようだ。まるで、ことの真実は存在しないかのように使い分ける。これが同じ人間が言う事か、これが左翼を名乗る人の言葉か!? と訝しく思うのだが、その場では認めているのだ。保守的な人は「バランス感覚」という言葉で大きな流れのようなものに迎合を強いる傾向もある。

 だから山田かんは問う。「人間としてどうなのか」と。

 先日、国連難民高等弁務官として活躍された緒方貞子さんが亡くなられた。関口宏のサンデーモーニングの特集で紹介された彼女の言葉が印象深い。

「(安全保障はなにも国のためではなく)大事なのは人間、人々です」

 最期まで、増え続ける難民の安全保障の不備を憤っておられた。まさにコメンテーターの言った〝小さな巨人〟である。

 樺俊雄さんは「最後の微笑」を「一粒の麦地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん もし死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネ伝 十二ー二十四)で祈りと共に結んでいる。

 来年、樺美智子さん没後60年の節目になる。樺俊雄著「最後の微笑」(文芸春秋新社)の口絵写真より