美空ひばりのボーカロイドが新曲を歌うNHKドキュメント「ひばり復活プロジェクト」の感動の余韻が続く。視聴した私も含め、携わった関係者たちは何に感動し涙したのだろうか。人工知能(AI)による芸術への挑戦。その感動の内容について改めて考えてみた。
ひばりファンなら、AI再生せずとも、生前のひばりのビデオ視聴でも感涙にむせんだりする。その感動と、今回のAI再生による歌声でボーカロイドが新曲を歌う感動とは、どう違うのか。いや、そもそも違いがあるのか。
例えばこの新曲を、物まね芸人・青木隆治にあの独特の装束と振付で歌わせたとしても、おそらく、ひばり「復活」の感動はなく、青木のうまさに感動するだけだろう。あくまでも〝青木の歌〟であり、どんなに似ていても〝青木〟なのである。
今回の感動の源は、AIによる、ひばり独特の節回しの再生された歌声と、3D映像のひばりの類型的「ボーカロイド」にあったのではないか。それに新曲であることが本物感を演出したようだ。
ボーカロイドの顔は、ひばりに似てはいるが、このごろテレビでもよく見る3D動画独特の動きを見せる肖像、やはり人形である。そして、なぜ純白の衣装だったのだろう。再生の色か、あるいは死に装束のようでもあった。
ここが実は復活劇の肝だったのではないか。
白はなにも死のイメージではない。基本色、純白という無色の中に、ファン一人ひとりが、それぞれの思い出にある色をイメージとして彩色する地の色というわけだ。
そして顔立ちもそう。AIが用意した、おなじみのひばりの顔は、やはり3D映像の域を出ることはなく、独特の人形の顔だ。ファンは〝ひばり人形〟を見つめながら一人ひとり思い出の笑顔、涙顔をその顔に重ねて想起する。
私たちは結局、純白の衣装や人形(ボーカロイド)の顔立ちに、思い出(記憶)のひばりを重ね合わせて懐かしみ、涙するのであろう。それに、歌う「新曲」が現在進行形を思わせ、復活劇に真実味を一層、与えてくれたようだ。
プロジェクトの取り組みと完成をよく見ると、ボーカロイドの容姿は類型的、没個性的で、それを抽象的存在といってもいい。画家が描く肖像であればそれこそ写真のように再生できるのだが、完成一歩手前を意識的に目指したようだ。色彩も顔立ちも、そして恐らく歌声も完成品ではなく抽象的存在、「記号」だったのではないか。その記号が視聴者・ファンの記憶・思い出を刺激し、それぞれの「ひばり」を心の内に再生させたのではないか。復活した美空ひばりは、究極の記号だった。
モネの睡蓮の欠落部分復活プロジェクトも、実は、私は再生の必要は感じなかった。多くの同テーマの作品を参考に、欠落部分は見る者それぞれの想像に委ねていいのではないか、ということだ。鑑賞者が感じ取れるかどうかだろう。美の世界・芸術はそんな世界ではなかろうか。
「美」は人それぞれの心の内に生れるもの。芸術の感動の出どころ、美術表現としての「抽象」の意義にも思いが至ったプロジェクトだった。