定本「柳田国男全集」から、別巻索引集を指針に「平家伝説」に触れた文章を抜き出してみた。当該箇所は以下の通り。

 まず「海南小記」の章。

 長者伝説を沖縄の島々から拾い、伝播の事実を口碑で証して「さすれば南海の沖の島に漂着した昔のものは、獨り平家の落人の口碑のみでは無かったのである」と、ルーツの違う漂着民の存在を示している。

 さらに同章の「與那國の女たち」から。

 島の風俗の中に「葦原の中つ國と、根原が一つであることを知るものが多いやうに思ふ」として島人と本島人との共通する民族性について言及。「北で溢れて押出されたとするには、平家の落人でも無い限りは、こんな海の果までは来そうにもない」として、「やまとの我々が大きな島に渡った結果、今日の状態にまで発展したと見る方が、遥かに理由を説明しやすいよう思われる」と、いわば大和民族による移住・開拓を示唆する。

 次に「東国古道記」のうちの「熊谷家傳記」。平家の落人伝説は「稀には越後にも羽後の由利郡にも、また関東の一部にさえも分布して居るのだが、遠山地方に在ってはそれが至って少ない」とし、「阪東武士の足跡に関するものが多い」と指摘している。

 「一つ目小僧その他」のうち「隠れ里」では、信州、福井を中心にした落人伝説の在りようを検証。「平家の落人の末と称して小松を名乗り」「福井県大野郡の山村は、これまた平家谷口碑の至って数多い地方」と紹介する。

 行を追っていて目に入ったのが「兼葭堂雑録」の文字。このごろテレビコマーシャルで度々目にする人物名だが、「(彼が)安徳帝御旧跡といふ地を七八箇所も挙げている」と紹介。これについても異見があるとし、地元の人々のことを思うと十分に述べにくいなどと書いている。苦難におかれた貧しい山住の人々に、「平家伝説」は耐える根拠、生きる誇りを与えていた。ゆえに、ここであえて否定する論を主張する意味はない、ということだろう。

 そして「木思石語」の「二」。「南の島々には島毎に平行盛、資盛などの遺跡があって、歌は事蹟を説き、塚には遺霊を崇祀するのみならずー」「東北北陸の山の中に入っても、やはり平家の落人として立派に公認せられて居る者が多く、彼らはただ、割拠没交渉の一手段のみによって、辛うじて家の誇りを保っているーー」などと、山村の佇まいから口碑の意味合いを説いてみせる。

 「木地屋土着の一二例」では、美濃武儀郡下牧村大字片知の戸数300ばかりの集落は、いずれも「小椋氏」であり、「木地屋の末かと思はれる」とし、同国郡上郡西川村大字内ヶ谷の三十戸ほどの集落も皆木地屋で「自ら平家の落人だ」などと言うと紹介している。

 そもそも長与の「平家の落人」は歴史的事実なのかどうか。歴史学、考古学など専門分野での調査・研究は今となっては叶わないことか。せめて「落人伝説」の伝播と伝承の形を、碑や書き物などで残しておきたい。

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 柳田民俗学は〝ロマンの学〟。「遠野物語」「海南小記」を読んだ限りでの感想だ。今回、改めて30数年前に福岡市大名の古書店で手に入れた角川文庫版「海南小記」を探し出し、文面を眺めた。奥付けに「昭和31年6月10日初版発行。定価七拾円」となっている。当然、絶版。

 旧八女郡矢部村、同星野村など山峡の里を調べ回っていた若き日の私の導きの一書だった。角川文庫「海南小記」