首石と右奥は本川内ダム
ホルトノキ
落ち武者の碑があった鳥居
摩利支尊天王社の階段
拝殿下の土俵
長与の歴史を伝える史跡の一つ「首石」を本川内郷に見に行った。
隣町の諫早市多良見町に抜ける松ノ峠トンネル手前の車道の崖上。山肌に張り付くように家屋が見えたところで車を止め、集落への道を上っていくと突然、径1・5メートルほどの自然石の大岩が眼に入った。一目で首石と判断できた。
周辺を見渡すと10戸前後の家屋がある。その集落への入り口。 ミカン農家が多いようだ。
振り返って町の中心部の西方向を眺めると団地が小さく遠望できる。東部に目をやると、本川内ダムが見える。佐賀藩諫早領と大村藩との境目を監視する、なんだか関所にいる感じだ。
首石について、そばの民家の30代の女性に聞いた。
「子供の頃におばあちゃんから聞いた」という女性の話では、「本当に首の大きさの首石が大岩の上にあったが、いつの間にか消えた」らしい。今ある大岩はその台座。「農道整備の時、お坊さんに供養をしてもらい取り除く予定だったが、風除けになるからと残してもらった」という。
近藤先生の聞き取りによる「長与ぶらり散歩」とほぼ似た由来だが微妙な違いがあり、伝承する人ごとに諸説あるようだ。
ただ、源氏方の追っ手が平家の落人を見つけて首をはね、見せしめに岩の上に晒したという言い伝えは、しっかり集落に残っていた。
この首石(の台座)から集落内に10メートル余り入った所の道沿いに樹齢550年と推定される県下最大の幹回り4メートル72センチの町天然記念物、巨大ホルトの樹がドンと構えている。首石の大岩と合わせて集落のシンボル的存在。人々の自慢となっていた。
続いて「摩利支尊天王(まりしてんてんのう)」。
長与駅西口の左側向かいの住宅地。その裏の山手に古い鳥居が立っている。周辺には説明板など何もない。石段を見上げると、相当の段数がありそうだ。登るほかない。結局、社のある頂上まで145段あった。この小高い山全体が神域になっているようだ。
鎮守の森に覆われた地域の氏神様。社と狭い境内だけで、落ち武者など何かを祭る碑や祠の立つ余地はないように思われた…と思いきや、拝殿に向かって左手は境内が一段低くなっており、整地された土俵があった。さては、この土俵の場所に落ち武者を悼む碑か祠があったのでは? と素人の浅はかな考え。
早速、近藤先生に疑問を投げかけた。先生によると、「-ぶらり散歩」には詳しく書いていないが、落ち武者の碑は縦1メートル弱の楕円形の自然石で、住宅そばの鳥居の足元にあったという。2005年発行の本の取材で確認したというから02、03年頃のことらしい。宅地造成で邪魔者扱いされ撤去されたのか?
先生は、碑はなくなっても社に安置された「摩利支尊天王」が無事であれば、落ち武者伝説は残せる、と言う。
摩利支尊天王とは、「日本ではもと武士の守り本尊として信仰されー」と「ぶらり散歩」にも記している。後に蓄財や幸福をもたらす、とされたが、元々は戦の守り神。落ち武者伝説には格好の本尊様ではないか。