根岸の古い街並み。大通りから商店街に入り、民家の並ぶ路地の一つに入ると散髪屋のポールがあった。「バーバー根岸」の隣と叔父は言った。もう忘れてしまっていた。

 工房は古い民家風の造りだった。玄関に広い庇が延びていた。「切り子屋」と黒く彫り込んだ板の看板が掛かっていた。板の周囲に配した矢来の意匠を、庇の隙間から西日が照らしていた。

 明るい初夏の日差しに慣れた目に、和ガラスの戸が開かれたまま覗かれる工房は涼し気な陰が支配していた。ギーンという厚い透きガラスを削る音が定期的に響いていた。

 未希は暗い工房に踏み入り、「ごめんください」と声を張り上げた。京は戸口に立ったままでいた。「ごめんくださーい」……「はーい」。奥から中年の女性が姿を現した。半袖の簡単服。事務の女性のようだった。

「連絡していた姪の未希です。叔父はいますか」

「おお、まっつぐこっちい来い。しっ散らかしておるが」

 叔父は、奥から壁、障子、柱と手をやり、伝い歩きしながら、まるで明かりを求めるように出て来た。そばに来るなり手を未希のほほに徐に充て、一、二度摩った。未希は彼のなすがままに顔を傾げて預けた。

「未希だ、未希だ、ちげーねえ。昔のまんまかわいい。さ、お上がんなさい」

「こんにちは、ご無沙汰して」と未希の後ろから間を開けて、京がおずおずと入って来た。

「お、入れ、こっちだ。随分久しぶりじゃねーか。どうしたんでえ」

 根岸叔父は盲目の職人だった。未希の顔を摩るのは盲目のせいだけではない。優しい心持ちの仕草でもあった。子のいない叔父は未希を、幼い頃からかわいがってくれた。

 甘えるばかりの未希だったが、成長し叔父の仕事の大変さを理解できる青年期には、尊敬の対象となった。

 根岸叔父の目の患いは、手に職を着けて後のことだった。〝いける口〟ではないのに、 糖尿病が悪化して徐々に視力を失っていったのだ。

 まだまだ中堅の切子職人だった彼はどんなに悔しかったことか。少女の未希にも身に染みて理解でき、東京を離れるまで、何かにつけて彼の身の周りの手助けをしたのだった。

 叔父は若い日に身に付けた作業手順を、頭の中に叩き込んでいた。色も意匠も覚えていた。今は弟子の助言を聞きながら、日明かりにほの白く広がる網膜のスクリーンに色も形も浮かび上がる。深いカットも磨きも削りの出来具合も、手触りで出来不出来が〝見える〟のだ。

 未希が、画家の道に苦行を重ねる若い京に心を寄せたのも、根岸叔父の面影を追ってのことだった。美を生み出す苦しみは二人同じだった。苦しみを越え、完成の絵図が見えた時の喜びぶりは二人似ていた。ふっと、カンバスに向かい背を見せた京に、遠く離れた根岸叔父の面影が重なったりした。

 未希を美の世界に初めて誘ってくれたのは実に根岸叔父だったのだ。