今や美術の学芸員は、高額の値の付く美術品を調達できる能力、鑑定眼を必要とされる。オークションで価値が出るであろう掘り出し物を買い入れる目利きの能力だ。
西洋・東洋・日本美術史、作品論の研究、そして現代作家との親密な関係はしっかり続けてほしい。我々、現代作家、とりわけ抽象絵画を手掛ける者にとって、彼らは戦友であるはず。自作を価値づけてくれる学芸員が価値の基準をオークションにシフトするなら、俺たちは欠落していく、出る幕がないではないか。
京は新聞の文化欄の小さな記事に目を奪われた。「新しい学芸員の仕事」を評価する記事だった。目を剥いて読んだ。
東京に住んで15年になる。すっかり東京人だが、東京人とはいったい何者? こう思うのはやはり東京人ではないからだろう。
妻の未希は、元々神田生まれの福岡育ち、京に上京を持ち掛けたのも、古里・東京に親密なにおいを感じるからだ。遠い親戚たちもいる。
「ねえ、京。根岸のおじさんに、お礼しなきゃあね。絵を買っていただいた心持ちが私、うれしくって」。「そうだ…感想は聞きたいしな」
未希は、長く無沙汰のままになった〝根岸叔父〟の笑顔が脳裏に浮かんだ。
「突然、私、あなたと一緒に帰って来たものね。きょうまで音無しのままだわ」
「絵を買ってくれとだけは図々しくも言ったよねえ。虫のいい奴って思われてるかも」と京が笑みをこぼしながら言葉を引き取った。
「親戚って、頼りにはなるよな」
京の頭に幼い頃、家に来ては飴玉の袋を握らせてくれていた伯父の人の好い顔立ちが蘇った。ニッケ水の飴。幼い京は唾をごくりと呑み込み、まるでお礼のように描いたばかりのクレパス画を両手に提げて一枚一枚見せた。両親の顔や動物や海山の風景をさらさらと薄塗りしていた。
笑顔の親子三人の絵は、無心に描いていた1枚で、特に思い出深い絵だった。新聞記者をやっていた伯父はふんふんと絵を両手で持ち上げ、「うまい!」と世辞を言ってくれていた。
〝絵の評価は肉親が一番〟京はしみじみ思うのだった。励みになる。
制作中のカンバスの絵を後ろから見つめているのか、未希の気配を感じながら、思いにふけった。
プロの美術家を名乗って何年になるか。美術家はいつだって挑戦だ。
妻の援助でここまでこれた。理解してくれている同業の作家もいる。
少年のころから援助してくれている評論家もいるではないか。強いファンがいる。
「一人じゃあない」と、なぜか弱気になった心を励ました。
京はこのところ、孤立感に捕らわれている。もともと芸術は一人だ、と強がってきたが、年齢とともに、若い頃の情熱が懐かしく心によみがえるのだ。
〝芸術家は孤独〟と信念のように気を張って来た東京での30年。ここにきて弱気の虫が居付いたようだ。
若い頃は仲間同士、切磋琢磨の日々だった。金はないが、面白くて楽しい芸術家暮らしだった。悲運の死をとげたやつ、流星のごとく現れて一気に落ちたやつ。そして、俺は…。
30代だった。あの頃は情熱があれば何でも描けた。技術もアイデアも互いに盗み合いだった。それを誰も許していた。
京は、今の絵画が生まれるまでの自身の歩みを思った。
「京、コーヒー淹れたわよ」未希の声で現実に戻った。そう、未希がいたから今が…。そして、皆がいた。