あの人は天女だったのか。
私は鉱山町の散髪屋のはなたれ小僧だった。
子どもの頃、小学4、5年だったか、店の前にきれいな女の人がどこからかやってきた。
2、3回見ただろうか。近所に住む娘だったようだ。
女の人が現れる度、母が店内からのぞき見て「また来ちょる」と苦笑いを浮かべた。
近所のおばさんたちも、姿は見えないが、戸や窓から様子見している雰囲気を感じた。
そんなことで、このきれいな人が普通の人ではないと子供心に判断できた。
私は店の前から恐る恐る見とれた。
薄い生地の白系統のワンピースだったか、美女は道路の真ん中に立ち、そばを通り過ぎる人に微笑みを返していた。目を細めてまぶしそうに空を見上げていた。手は、きれいにすかれた髪をなでていた。微風がその髪の毛をさらさらと流していた、ように記憶する(後付けかもしれない)。
「きれいな子なのにかわいそうに」と母は話していた。どこどこの誰と母は言っていたが、記憶にない。
昔のこと、「狂っちょる」とか「気違い」とか、無慈悲な言葉を陰で投げかけられていた。彼女のことでは、私の母も無慈悲な一人だった。貧乏な散髪屋だ。母は内心に哀れみが宿っていたに違いないが、そこまでは幼い私には気付けなかった。
私にとっては、異常だろうが、笑顔でやさしく見つめてくれる、きれいな女の人。一瞬華やかな風を吹かせる、この美女が不思議でたまらなかった。
ここは石灰石採掘の鉱山町だ。坑内で真っ白になった坑夫たちが、店にやってきた。老いも若きも気のいい人たちで、店内をうろちょろする私もかわいがられた。
美女はいわば「掃きだめの鶴」だったではないか。坑夫たちも彼女の存在を知っていたはずだ。
きれいな娘の存在は荒くれ者たちの気持ちを穏やかにしていたのではないか。伝説の天女とはこのような存在を言ったのではないか。
年齢を重ね、私は確信めいた結論に至った。ギリシャ彫刻の女性像のようなきれいな人。
だが、彼女は突然姿を消した。施設に入れられたのか、屋内に閉じ込められたのか……。
60年前のおぼろな記憶が、年ごとに鮮明さを増してくる。記憶が時間と共に肉付けされて。
あの人は天女だった。