北炭夕張新鉱ガス突出事故 | 猫好きのブログ

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 1981年に夕張市の炭鉱で起きた事故であり、93人の死者を出した。この事故は日本の炭鉱産業に致命的な影響を与えた。なお中国の炭鉱では未だにこの種の事故が発生している。

 

 

 まず突出とは何かということを説明する。作業員は掘削や発破等の作業を行うが、石炭層に蓄積されたガス圧や地圧が解放されることで突出事故が起きる。このとき、坑内のガス濃度が上昇し、爆発や火災の危険性が高まる。

 

 爆発するとガスが坑道に向かって逆流するわけで、逃げ遅れるとメタンガス中毒で死亡する。逃げると言っても最先端から坑道入口まで3キロもあるのだ。また坑内には粉塵が浮遊しているわけで、これに火が付くと大規模な火災が起きたり、岩盤が崩壊して出口を防がれたりする。鉱員というのは非常に危険な仕事なのだ。

 

 勿論、坑道内ではガス濃度を測定し、警報機が鳴るようにはなっているが、政府は炭鉱会社への補助金を削減をちらつかせながら、生産量の増大を求めたため、現場では無理が横行していた。ガスの許容濃度を上げ、それでもブザーが鳴りっぱなしだったという。

 

 事故発生時に北部方面では160人が作業を行っていた。直ぐに退避命令が発令され、救助隊が坑道に入ったが、33名が遺体で発見された。更に救助隊も二次災害に巻き込まれ、最終的に59人の行方不明者が出た。

 

 話はこれで終わらない。坑内では事故発生後3日経過しても火災が収まらず、会社は残された人の生存可能性はないと判断し、注水による消火を検討した。

 

 会社は役員を戸別訪問させ、行方不明者の家族の同意を取って注水を開始した。ようやく沈下したものの、坑道内部は荒れ果てて行方不明者の収容は難航した。最後の遺体が収容された時には事故から163日も経過していた。

 

 その後、社長は責任を感じて自殺を図るも未遂に終わった(後日、代表取締役を辞任)。社運を賭けた新鉱山の再開は不可能になり、会社は事故から2か月後に会社更生法を申請、炭鉱も閉山した。

 

 

 この会社の名前は北海道炭鉱汽船といい、現在も存続している。嘗ては三井グループの主要企業の一つで東証一部上場企業であった。現在は社員数僅か9名に過ぎない。

 

 1981年のガス突出事故で夕張市の経済は危機に瀕した。市の主要産業の主力企業を失っただけではなく、閉山の後始末に583億円も負担した。内、地方債として332億円が負債となった。そして事故を契機に夕張市は観光政策に転換した。

 

 だが無理なリゾート計画が市の財政を蝕み、累積債務を増やして最終的に市は財政破綻を起こすのである。

 

 北海道炭鉱汽船(略称 北炭)の盛時が分かる話が残っている。北炭のゲストハウスに鹿の谷クラブがあった。往時は皇族や映画スター等来賓の接待、北炭役員の社交の場として使われていた。

 

 ここで働いていた女性によると、

「来賓以外で宿泊できるのは本社の部長以上だけ。蔵の中にはドイツワインがぎっしり貯蔵され、系列ホテルのコック長だった人が腕を振るった。」(1959年-1962年)

 

 30畳の大広間、赤絨毯の廊下。周囲に鉄線を張り巡らし、守衛が24時間態勢で警戒。配達の郵便局員でさえ、決まった人しか入れなかった。

 

 鹿の谷クラブは北炭破綻後、夕張市が買い取り、夕張鹿鳴館となる。夕張市破綻後に民間に譲渡される(維持費の支出が困難になり、補修費も数億円掛かるため)。2011年に国の登録有形文化財となるが、その後も所有権が何度も変わり、現在閉鎖されている。youtubu動画を見ると、劣化が進んでいた。貴重な文化遺産がいずれ朽ち果ててしまうかもしれない。現在は中国系系の不動産会社が所有しているが、ほぼ放置されているようだ。

 

 (参考文献) 「追録 夕張問題」北海道新聞取材班著、講談社文庫

 

 

 

 明治天皇が宿泊されたという由緒ある施設も管理されないとこの通り