他の記事を書いていて、ちょっと間が空いてしまいましたが。
 
 
6月16日に千葉市美術館の「板倉鼎・須美子」展を見に行って、同時開催されていた「石井光楓(こうふう)」展も見ました。
 
 
板倉鼎も松戸育ちで千葉県ゆかりの画家ですが、光楓も、夷隅郡浪花村岩船(現在のいすみ市)生まれで、千葉県ゆかりの画家です。
 
すみませんが今回までどちらの画家も知らなかったんですが~・・・
 
 
こういう画家たちがいたのだと、この機会に知ることができて良かったです。
 
わりと好きです。
 
 
 
 
 
パンフレットは見開きになっていて、一方は会期が3月9日~3月29日まで。
どちらも千葉市美術館コレクション展ですが、3月は「特集展示・房総ゆかりの作家たち」
 
 
(右の絵のモデルはあとにも出てくる下宿先の管理人さん。この作品が「コンセルヂの老婆」)
 
 
 
4月6日から6月16日までが「両洋のまなざし」でした。
 
 
この「両洋」というのは東洋と西洋のこと。
 
最初は日本画をやっていて、それから洋画に転向した。
 
東洋的なまなざしと、西洋的なまなざしと。
 
 
 
板倉夫妻の展覧会も写真OKの作品が限られていたのですが、こちらも限られていました。
 
なのである意味、ブログ掲載はラクだったりします。写真の選択に迷わなくていいから。爆  笑
 
逆に、写真NGの中で自分が気に入った絵は写せませんでしたけど。
 
 
 
 
こう言ったら何ですけど、板倉さんよりは石井さんのほうが、普通の意味で絵が上手かもしれない。あせる
 
板倉さんも上手な少年でしたけど(画風が変わったのは後年)。
 
 
 
 
光楓は最初は日本画をやっていたので、洋画に転向してからもどこか日本画的なところがあって、それがアメリカやフランスでウケたみたい。
 
パリの新聞「ル・フィガロ」が「ネオ・オリエンタリスム」であると評価したと。
 
新しい東洋趣味、でしょうか。
 
 
 
パンフレットより。
 
 
房総ゆかりの作家・石井光楓(本名・政次/まさじ)は、日本画家である石井林響(りんきょう)に師事したのち、22歳の頃に日本美術院研究所の門をたたき、洋画に転向しました。1921年(大正10)年の第3回帝展出品作が特選候補となるなど着実に実力をつけていた光楓ですが、海の向こうへと憧れを抱き、留学を決意します。30歳の光楓はまずアメリカへと向かい、続いてパリを目指しました。パリに到着した1925(大正14)年、アカデミー・ジュリアンで本格的に洋画を学びます。
 
 
 
帰国後は長生第一高等学校(今の県立長生高校)の美術教師などしたり、若干地味めな気もしますが、大正時代の夷隅郡に生まれて、渡米したり渡仏したり、遠くまで行っていた人がいたんだなあと感心しました。
 
洋行帰りの先生が教えてくれるんだからすごいかもしれない。
 
 
 
パンフレットに、<千葉から世界へ 大志を抱いた青年画家>とあります。
 
 
 
 
今だって誰でも留学できるわけではないけれど、当時は外国へ行くこと自体がもっとずっと難しいことだったでしょう。
 
 
今でも房総は田舎ですけど、昔はホントに田舎でしたでしょう。半島ですもの。
 
(私も千葉県人なので馬鹿にしてるわけではないですよ)
 
 
 
 
 
 
板倉夫妻と同時代の「エコール・ド・パリ」の頃です。
 
藤田嗣治らと交流しながら・・ということで、今回の展覧会では、パリ在住の日本人たちの芸術家協会みたいなグループ(名前を忘れた)の集合写真なども展示されていました。
 
この記念写真にはフジタもいたし、「左端は板倉鼎と思われる」みたいな感じに一緒に写っていた。
 
 
その写真は時代柄か男性ばかりの集まりでしたけど、日本人女性もフランス在住者が複数いました。
 
ずいぶんと日本人がフランスにいたんだなと改めて思いました。
 
戦前はね~。
 
 
 
光楓は1922(大正11)年にサンフランシスコに到着してからアメリカ各地で取材や研鑽に励み、そのあとにパリへ移った。
 
あとでまた米国に戻ったりもしたのだったか(経歴)
 
※船で移動です。板倉夫妻の場合もアメリカ経由で渡仏。彼らは途中でハワイにも滞在した。インド洋のほうから行くのかと思っていたら(そっちも航路があった)アメリカ経由でパリへ行った日本人画家たちがけっこういたような話でした。
アメリカ経由も人気だったみたいです(どなたかのブログを参考)。
 
 
 
なので米国での作品もけっこう展示されていました。
 
米国時代もパリ時代も、制作年不詳というのが多かったのがちょっと印象的でした。
 
 
「オレゴンシティ市場」
(水彩・コンテ、紙) 制作年不詳
 
 
 
 
「裸婦習作」
(水彩・コンテ、紙) 制作年不詳
 
 
<アカデミー・ジュリアンに入った頃に描いたものか。>
 
と解説にあったので、フランスに渡った後の習作と見られるようです。
 
 
 
 
これも渡仏してからですね。
 
「キュイジニエール(食事の支度)」1927年頃 
(油彩、カンヴァス)
 
 
 
※ガラスが入った額縁だったので、写真には映り込みが入ってしまっています。
 
 
アカデミーで学んだ伝統的でアカデミックな人物描写がよく表れている。女性の衣装、テーブルクロス、人物の背後にあるカーテンの赤色が際立ち、力強い筆致で、フォーヴィスムの雰囲気も感じられる。本作のモデルは≪コンセルヂの老婆≫と同じく、光楓の下宿先の管理人だと推測される。
 
 
と解説にありました。
 
フォービスムというのは「野獣派」ですね。野獣派っていうとなんかすごい感じですけど、ギュスターヴ・モロー、アンリ・マティス、ジョルジュ・ルオーみたいな感じだそうです。
 
写実的でなく、力強いタッチや明るい原色、みたいな。モローやルオーはもうちょっと幻想的な感じかもしれないが。
 
 
 
「ブロンジ村の秋」
1930年頃 (油彩、カンヴァス)
 
 
ダイナミック。
ゆがんじゃいましたね(笑)
 
<アカデミックな写実主義から脱し、フォービスムなどの当時の芸術潮流に身を任せながら独自の表現を打ち出そうとしていたことを伝えている。>
 
 
 
 
「フランスの農村」
1930年頃 (水彩・ペン、紙)
 
 
これは水彩だったんだ。油彩っぽいと思っていたけど。
 
なんとなくこのへんの色使いや不思議な感じが、昔のスペインの画家、エル・グレコを思い出しました。
 
全然違うかもしれないけど。
 
 
 
 
重厚な油絵作品も好きですけど、司祭さんのような「読経」とか。

ここに出てます。

肉眼で見ると良かったんです。

 

 

 
けど、それより前の、日本画の影響が残ってるような絵をかいていた時代の、米国の風景画なんかも私は好きです。味わいがあって。
 
 
 
※ちなみに3月にやっていたという特集展示は約10年の滞欧期の作品中心だったんですね。
 
 
 
 
「木蓮」
1947年頃 (油彩、カンヴァス)
 
 
これは帰国してからだし、太平洋戦争後ですね。
 
第24回春陽会(しゅんようかい)公募展で入選した作品だそうです。
 
このほか2点を出品し、春陽会賞を受賞。これを機に会友に推挙され・・・・とある。
 
 
写真だと明るめの色になってしまいうまく写せなかったんですが、肉眼で見るともっと全体的に暗くて深みのある色合いした。
 
 
 
春陽会にはこのあともずっと出品し続けたんだったと思う。
 
 
 
パリ時代は、ベルギー、オランダ、ロンドン、スペインなどにも写生旅行に出かけていた。
 
そういえば板倉鼎もパリからイタリアへ旅したことがあった。
 
 
戦前の日本人画家たちはこうやってアメリカやヨーロッパで勉強していたんですね。船で遠路はるばる西洋へ渡って。
 
 
 
板倉鼎の場合は病気で夭折してしまいましたが、光楓の場合は、<世界恐慌の余波と迫りくる戦争の陰によって>約10年ぶりの帰国となったそうです。
 
その後、陸軍の従軍画家として中国南部へ行き、現地の様子を絵に描いた。これも作品展示がありました。
 
 
 
ちなみにかの岡本太郎さんも戦争の影響でフランスから帰国した1人でしたね。彼のほうが年齢がだいぶ若かったですが。
 
1940年のドイツ軍のフランス侵攻により最後の引き揚げ船で帰国。既に30歳くらいでしたが一兵卒として招集されて中国戦線へ。後に捕虜となる。
 
 
そういう時代。
 
平和なほうがいいよなあ。