アクセス分析をふと見ていたら、どこのどなたか見てくださったようで、アクセス数に載っていました。
それ以上は追っていないので、どこからアクセスされたのか等、詳細は全然わかりませんけど。
(なのでご安心ください)
ただ、自分で記事を読み返してみて、理解がやや浅かったような、すんなり飲み込めていないような、と思いました。
なのでリブログしてもう一度書いてみようかと思います。
ちなみに今は自分では「最高・最善」でなく、「最善・最高」と言っています。
並木良和さんの影響かな?? 忘れちゃったけど何となく・・・
今は前に書いたときよりシンプルに、
「最善最高」というのは、その人の魂にとっての最善最高。
だと考えています。
スピリチュアルな考え方では、人は生まれる前に自分の人生の基本設定を決めて生まれてくると言われています。
魂の向上・成長のために役立つことが最善最高。
だけど、生まれたあとはほとんどの人が基本設定や課題をすっかり忘れた状態で生きていく。
たぶん、実際によく体験するためそういう仕組みなのだろうと思いますが。
だから「今の自分が意識的に望んでいること」が、本当に自分の魂にとっての最善最高なのかはわからない。
今の自分は「いやいや、自分なんて」とか「〇〇だからムリ」と考えて、無意識に制限を作って枠を狭めてしまっているかもしれないけど、本来はもっと良い状態になれる、という場合もあると思います。
私にはそういうのは見えないのでホントかどうかわかりませんが、そういう考えを「採用」することにしています。
これは前の記事にも書きましたが、そのほうが生きる上で建設的だと思えるから。
「魂の」というのが分かりにくくければ、「長い目で見た人生全体にとっての最善最高」と考えてもいいかもしれません。
別にスピリチュアルな考え方をしなくても、「あのとき落胆したけれど、あれがあったからこそ、こういう状況になれたんだ!」という、「結果的には良かった」というのがありますよね。
その当時の自分には将来が見えていないから、先に行ってみないとわからない。
ただし、これだと「生まれる前から死んだ後」が入らないので、「あの人はいい人なのに、何でそんな酷い人生なんだ?」「あいつはあんな悪い奴なのに、なんで金持ちなんだ」「人生は不公平だ!」みたいなことになるかもしれない。
死んだあとまでトータルで見ればちゃんとバランスが取れるんだそうですよ。
それに、悪い人間の役をやるためにそういう設定で生まれる場合もあるとか。
まあしかし、いろいろな理由がいくつもあって、いくら考えたところで、どうせこの世にいる間は我々には真の理由はわからない。
なので、ウィリアム・レーネンさん(既に亡くなられたそうです)が語っていたように、「すべてはただの体験であって良い悪いはない。なぜそれが起きたのかと理由を考えるよりも、自分がどう反応し、どう行動するかが大事」ということになるんでしょう。
(実際にはこの世には酷い出来事があるし、レーネンさん自身も人生の中で複数の辛い経験がありました。それでもなお)
自分の反応と行動、それが結果的に「最善・最高」につながっていくのでしょうから。
そして、自分以外の人の人生は「その人の人生」で、その人の魂の都合があるのだろうから、心配し過ぎないこと。
人としての心遣いやサポートはするとしても、最終的には「その人の最善・最高」を祈る。
むやみに力むのでなく、むしろ手を放して力を抜く、“宇宙にゆだねる”ぐらいで良い。
けれども「地球は行動の星」とも言われますから、思っているだけでなく、実際に行動することは必要。
「人事を尽くして天命を待つ」みたいな感じ。
進んで行ったら、次は何が見えてくるのだろう?
photoACより。スペイン、アンダルシア地方。
余談:
レーネンさんについてググっていたら、辛酸なめ子さんとの対談が(2018年)。
この回の最後にある「よもやまスピ話」は興味深かった! バッサリ。