外は冷え切っていた。何もかもが凍っていた。東のメタルの部分、植物の樹液、大地そのものが凍てついていた。雪で見慣れぬ風景になってしまっている見慣れた通りを彼は歩いていった。多くの家が真っ暗なままだった。みんな休暇をとってどこかに行き始めていた。雪が積もるにつれて、街はめったなことでは訪れない貴重な静けさに覆われていく。
彼はコートの中の両腕を威勢よく振り上げながら、からだが温まってくるまで早足で歩いた。彼は学校の会場の入口のところで出会った死にかけの男のことを思った。彼が誰だか見分けがつかなかったとは、何と恐ろしいことなのだろう。彼はその男を見つけて、こう言ってやりたい気持ちになった。みんな毎日ちょっとずつ違うふうになって、変っていくんだよ、それだけのこと、ただそれだけのことじゃないか、と。確かに自分について何かがわかったとアランが思った途端、彼は変わってしまっているのだ。それは希望ということでもあった。
見方によっては、この世は灰のようなものだと言えた。あらゆる希望や欲求、そして欲望を燃やしつくすことによって、すべてを塵に変えてしまうこともできる。しかし生きることは、ある意味で、未来を信じることなのだ。いつまでも同じ古びて手垢がついた場所に戻り続けることはできない。
―ハニフ・クレイシ著~短篇集『ミッドナイト・オールデイ』の“夜の深い鉢の中の朝”より~
アメリカン・サイコな事件
ロンドンやニューヨークの公園は、まだ秋の紅葉には染まっていないようだが、来月にはクリスマス・シーズンが控えており、冬の足音が聞こえてきたのも確かだろう。
そのニュースとは、英国を代表する超名門大学「ケンブリッジ大学」を卒業し、米系金融機関に勤めていた、29歳の英国人エリート金融マン<Rurik Jutting(ルリク・ジャティング)>が、(彼が住む香港のタワーマンション31階の自宅で)2人の売春婦を殺害した事件だ。要は、ブレット・イーストン・エリス原作『アメリカン・サイコ』(1991年)を基に、ハリウッドで映画化された『アメリカン・サイコ』(2000年)を連想させるような殺人事件が先週末、香港で実際に起こったのだ。
海外サイトをいくつかチェックしてみたが、彼はロンドンのバークレイズを経て、メリルリンチ、そして2013年夏頃から香港勤務になったようだ。また、彼のニックネームは昔、悪い冗談なのか、名前<Rurik>を逆から読んだ<Kirur(キラー/殺人鬼)>だったようだ。そして、現在の写真からは想像もできないほど、昔の彼はとても痩せており、彼が高給を稼ぐようになり、贅沢を享受できるような身分となって以降、フツウの生活がハイライフ化していき、プライヴェートでは退廃的な日々を送っていたようだ。
ひとつだけ言える確かなことは、彼はパトリック・ベイトマンではないということだ。健康管理もできず、誘惑(欲望)に負け続け、超肥満体になり果て、殺人まで犯してしまった容疑者<ルリク・ジャティング>は今、何を想うのだろうか。誤解のないように付け加えておくが、『アメリカン・サイコ』の時代設定は、狂乱の1980年代であり、今とは正反対の時代なのだが、彼のようなエリートが、文学や映画の中の『アメリカン・サイコ』的な世界と、現実の世界を混同するなど到底思えないが、正常なるものと異常なるものの境界の危うさ。正に、サイコパスの世界だろう。
ところで、映画『アメリカン・サイコ』のエンディング曲には、他でもないデヴィッド・ボウイの“Something in the air”が使用されたが、彼もこのニュースを耳にしているはずだ。
ハニフ・クレイシ
話は変わるが、前回のブログでは、フランス人作家<ミシェル・ウエルベック>の小説にフォーカスし、イギリス人作家<ハニフ・クレイシ>のそれに触れるスペースがなくなったが、先週末に劇場鑑賞したフランス映画『ウィークエンドはパリで』(2013年)の脚本は、他でもないクレイシその人なのだ。また、同作品の日本版予告編では、前々回のブログ冒頭で取り上げたサン=テグジュペリの言葉が引用されている。先週末の日曜日は、俺は同行しなかったが、弟夫婦と子供たちは箱根に出掛け、サン=テグジュペリの「星の王子さまミュージアム」にも足を運んだようだ。
1954年生まれのクレイシの小説は、ブレット・イーストン・エリス同様、ミュージシャンの名前や、曲目(主にロック)が登場するのが特徴のひとつだとも言えるが、彼はとりわけ、ビートルズに関してはかなり詳しく、マニアのようだ。ボンベイの名家出身のインド人の父(イスラム教徒のためパキスタン国籍になっている)と、イギリス人の母を持つ彼は、インド系イギリス人の作家なのだ。
映画『マイ・ビューティフル・ランドレット』(1985年/英)と同じく、この小説も、ハイブラウな文化と伝統を受け継ぐ優雅で落ち着いた白人の「イギリス」とは対照的な、猥雑で怒りと戸惑いに満ちた「もうひとつのイギリス」を描いている。ちなみにクレイシに言わせれば、前者は「遠い過去」、後者こそが「現在」である。
主人公のカリムはロンドン郊外に育った17歳の少年で、本書は基本的に彼のアイデンティティの模索とグローイングアップの物語だ。そこに「人種と階級とセックス」というテーマが絡んでくるのだが、こうしたイギリス社会の「内なる他者」の問題をストレートに、しかも不遜とも言えるほど滑稽に扱った作品はなかったらしく、人種偏見を助長するとも取られかねない描写や卑語、作品で暗に認めた自身のバイセクシュアリティも手伝って、クレイシはたちまちイギリス文壇の「トラブルメイカー」「テロリスト」「挑発者」などと呼ばれることになった。
戦後、衣食住足りて郊外で暮らすようになったイギリスの白人中流階級は、見栄の消費に奔走する俗物になる一方、物質主義ではどこか満たされぬ心の隙間を埋めたいと東洋哲学に入り込み、かたや移民と労働者階級は、ディケンズの時代と変わらぬ貧困にあえいで互いの対立を深めている。それにこの事態は、労働党の唱えるマルクス主義的歴史観ともことごとく矛盾しているようじゃないか? それならイギリスはカリムの父のような似非教祖で救われるのかというのが、クレイシのトップスピンのかかった超一流の皮肉なのだろう。
二人はそれぞれ自分たちの世界を守り続けようと奮闘していた。愛は、蜘蛛の巣に棒を突っ込んだ時のように、瞬時にして引き裂かれて消滅してしまうこともありえるのだ。しかし愛とはさまざまなものが混ざり合ってできているものだった。純粋なひとつのものになることは決してありえない。二人の間には十分すぎるほどの愛と優しさがあると彼にはわかっていた。無駄に終わらせてもいいような愛などどこにもないということも。
1960年代後半ずっと、ビートルズは、難解に見える思想を明快にして世に広めるという、極めて稀な、しかし必要かつ重要な回路として機能しつづけた。神秘主義、さまざまな形態の政治活動、ドラッグ。それらの、多くはハクスリーから発する思想によって、ビートルズは世界を誘惑した。それができたのは、ひとつには、彼らが無垢だったからだ。彼らは基本的に、悪い子になったいい子だった。いい子が悪い子になって、たくさんの人を一緒に連れていったのだ。
自分は何百回もトリップしたとレノンは豪語した。彼はまさに、非日常的な精神状態に惹かれるタイプだった。LSDは恍惚状態を生み出し、抑圧を取り払う。うまく行けば、生の強烈な味わいを我々に気付かせてくれもする。トリップに入り込み、意識がどんどん高揚していくにつれて、記憶もまた刺激を受ける。過去こそが自分の芸術の源であることをレノンは知っていた。彼のドラッグ・ソングは、憂鬱と、内省と、後悔に満ちている。『サージェント・ペパーズ』がもともと、「ストロベリー・フィールズ」と「ペニー・レーン」のような、レノンとマッカートニーのリヴァプールでの少年時代をめぐる歌を集めたものになる予定だったことも、驚くにはあたらない。
音楽(ロック)の世界で「天才」(数えるくらいしかいない)と言われるようなアーティストを紐解くには、文学を辿っていけば、ビートルズに行き着き、そしてデヴィッド・ボウイにも行き着くわけだが、2013年10月8日付ブログ“BRAVE NEW WORLD”では、「おそらく今、新しい時代が始まろうとしているのだろう。知識人や教養ある階層が、ユートピアの実現を避け、より“完璧”でない、もっと自由な、非ユートピア的社会に戻る方法を夢想する時代が」とニコライ・ベルジャーエフの言葉を引用し、ハクスリーの『すばらしい新世界』(1932年)について取り上げたが、興味のある方はどうぞ。
そう、本日のブログは「二極化する世界」について当初綴る予定だったが、香港版『アメリカン・サイコ』の話から、ハニフ・クレイシの流れで徒然と書いていたら、スペースがなくなってしまった(笑)。それゆえ、今週のツイートの中からいくつか紹介したい。
原題は“UNE ESTONIENNE A PARIS”であり、パリで暮らす、エストニアからの移民同志(富豪とメイド)の物語なのだが、同作品のエンディングに使用された曲は、DEZ MONAの“Lack of Love”だった。
最後になるが、香港の事件もそうだが、なぜ事件が起こってしまったのかその原因を考えると、成功者云々のわがままな話と倫理観の欠如はともかく、先述した映画同様、「愛の不足」だったように思うのは、俺だけだろうか。白ワイン片手に、静けさに包まれた東京も悪くないが、時計の針は今、11月7日(金)の25時30分を回った。
Have a nice weekend!