Once upon a time | In The Groove

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a beautiful tomorrow yea

 
旅する女たち
は常に逃避行者である、と私は思っている。恋愛小説の読者がそうであるように、私たちはいつも、自分がどこかへさらわれていくことを夢見ているのだ。変化はいつも、新しい環境や新しい男によってもたらされる、と私たち女は思っている。つまるところ、私たちは、世の中の営みに対してあまりにもうぶな考え方の持ち主なのである。『たち自身の文学』という本のなかで、エレイン・ショーウォルターは言っている。「公的な社会への参加の道を阻まれたために、たちは否応なく、自分たちの感情世界を探求するようになり、ロマンスというものを過大評価するようになった。すなわちは、経験の空白を、とりあえず感情の豊かさで埋め合わせようとしたのである」

 

男たちは幼少時から、自分の人生に対して責任感をもたされる。だが、残念なことに、私たちの世代のはそのことを大人になってから学んだ。そのせいで、私の心のなかでは長い間、「自立したい」という欲求と、「誰かに守られていたい」という欲求が同居していた。そしてそれがしばしば悲惨な結果をもたらした。そして、そういう手痛い目に何度かあったあとで、私は最近になってようやく、すでに述べたような自分の心のなかの矛盾に気付くようになったのである。

 

結局のところ、いくら逃避行を試みても、自分からは逃げられないのだ。どこへ行っても、自分という人間はついてくるのだ。孤独や欲求不満が募ったからといってをしても、状況は悪くなる一方で何の解決にもならないのだ。そのことを身をもって知った今、私は困難に立ち向かう必要のあるときには、けっしてには出ない。私は今、自分の知らない世界に出会うためにだけ、に出る。

メアリー・モリス(『ニューヨーク・タイムズ』のコラムより)

 

ティルダ・スウィントン来日

 

昔々の1854年10月16日。英国を代表する天才作家<オスカー・ワイルド>が生まれた。そう、今年はオスカー・ワイルド生誕160周年というアニヴァーサリーな年でもあるが、先日、英国のロックスター<デヴィッド・ボウイ>の大ファンのひとりで、英国を代表する女優<ティルダ・スウィントン>(写真上: 右から2人目)が来日し、現在開催中の『東京コレクション』(正確に言えば「Mercedes-Benz Fashion Week TOKYO 2015 S/S」)の「ハナエ モリ(HANAE MORI designed by Yu Amatsu」の2015年春夏ファッションショー(13日)のフロントロウに、ファッション・デザイナー<ハイダー・アッカーマン>(写真上: 左から2人目)と共に姿を現したのだ。

 

ところで、俺が前回、ブログを書き始めたのは、今週はじめ13日(月)の深夜だったが、ブログ更新時には、日付が変わり、時計の針は14日(火)の0時25分を回っていた。台風が接近していた同日、月曜日の昼下がり、ティルダ・スウィントン(54歳)は渋谷ヒカリエ内の会場に居たのだ。

 


The Stars (Are Out Tonight)
”のPVで、ボウイと競演していたのは驚きだった。

 
シャーリーズ・セロンをはじめ、スカーレット・ヨハンソンケイト・モス同様、彼女がボウイの大ファンのひとりだと知ってはいても、ね。尚、それについては、2013年2月28日付ブログ“The Stars (Are Out Tonight)”の中で詳細に綴ったので、興味のある方はどうぞ。

 

日本人の9割9分が現在、東京でファッションショーが開催されているのは知らないと思われるが、ファッションの世界とはそういうものなのかもしれない。また、日本国民の多くが、ファストファッションのユニクロは知っている一方で、世界的にも名が知れている日本人ファッション・デザイナー・・・ハナエ・モリ(88歳)、イッセイ・ミヤケ(76歳)、ケンゾー・タカダ(75歳)、レイ・カワクボ(72歳)、ヨウジ・ヤマモト(71歳)、カンサイ・ヤマモト(70歳)のファッションを知る人は圧倒的に少ないはずだ。先述した日本人デザイナーの服に限れば、1980年代、黒の衝撃と形容された、川久保玲の<コム・デ・ギャルソン>の服を中学生時代に着ていたのが、俺にとっての最初で最後の、日本ブランドのエクスペリエンスだろうか。あの当時は、デヴィッド・ボウイの曲“レッツ・ダンス”が世界中で大ヒットしていたワンス・アポン・ア・タイム・・・東京の街が光り輝き、キラキラしていたバブルの時代だ。

 

山羊座の男と女

 

森英恵(ハナエ・モリ)>のファッションに関して、俺は同ブランドのブティックに足を運んだことが過去一度もなく、彼女のクリエイションを全く知らないので、同ファッションについては語れないので、あしからず。とはいえ、彼女について知っていることがひとつある。彼女の誕生日は、驚くことなかれ、デヴィッド・ボウイと同じ1月8日なのだ。そう、山羊座だ。1926年生まれの彼女が88歳で、1947年生まれのボウイが67歳だ。付け加えると、誕生日は数日違うが、俺もまた1月生まれの山羊座なのだ。

 

ファッションという虚構のなかにいる自分が辛くて辛くて。同じ世代の人種の違う人間がひとつの歌を通し、ある時代を共有する。音楽の力って凄いですよ。音楽の持ってる幅の広い、人種とかを超えて人を圧倒するスケールの広さにはジェラスを感じていました。えっ、ファッションは? どうなんでしょう? わかりません。

山本耀司

 

外国人には、日本のイメージとして、料理(寿司ほか)クルマアニメは認知されていても、日本のファッション音楽はほとんど知られていないと(知っている人はごくごく少数派だろう)思われ、今回のティルダ・スウィントンの東京コレクションのための来日に関し、海外メディアが一部で報じたため、少しばかり関心を持った外国人も少なくないはずだ。

 

ハナエ・モリが今回、なぜ彼女を招待したのか、その意図は知らないが、昨夜は帰宅後、デヴィッド・ボウイが昨春リリースしたアルバムをBGMに選び、彼の曲に耳を傾けながら、色んな事を思い出した。そのアルバムには、過去を振り返った曲もあったが、今も変わらず、デヴィッド・ボウイという音楽の楽しさが溢れており、彼独特の特別な世界を創り上げていた。シャンパン片手に、彼の音楽の“ディファレント”を改めて感じた、そんな素敵な夜だった。

 

世間一般的には、ボウイのアルバムは、70年代にリリースしたものばかりが最高峰だと思われがちだが、それは或る意味、強ち間違っていない評価かもしれないが、ボウイをよく知る人であれば、ボウイの作品の中には、80年代にも、90年代にも、ゼロ年代にも、そして10年代にも、それぞれ名盤が存在するのを理解しているはずだ。ボウイのベスト盤が来月リリースされるが、そのときに改めて、その選曲に関し、思うところなどを綴ってみたい。

 

尚、ボウイ作品のプロデューサーのひとり<トニー・ヴィスコンティ>が、「お気に入りのデヴィッド・ボウイ・ソング 11選」をセレクトしており、音楽サイト“amass”で紹介されていたが、それはとても興味深かった。彼のセレクトの中では、最高傑作“Life On Mars”(1971年)はともかく、“Blackout”(1977年)と“Stay”(1976年)はとりわけ、俺のお気に入りでもある。

 


 

ブラックアウト(邦題: 暗転劇)”は、ベルリン三部作のひとつで、1977年秋にリリースされたアルバム『ヒーローズ(邦題: 英雄夢語り)』の収録曲だ。「君は過去を歩く。僕は腐ったワインを飲まされた。僕は逃げるよ。暗転だ。日本の影響を受けてる僕の名誉にかかわることだ」とボウイがクールに歌うが、彼は当時、ロビン・フッドのようにタバコをふかしたのだろう。

 


 

しかし、ヴィスコンティのありきたりでないセレクトは、或る意味、秀逸だ。俺自身、デヴィッド・ボウイを起点にすれば、物語をいくらでも書けるほど、彼に関しては精通している。そして、ヴィスコンティのセレクトした“It's No Game (Part1)”は、1980年秋にリリースされたアルバム『スケアリー・モンスターズ』の収録曲であり、名曲に他ならないが、狂気に満ちた同曲には、日本人女性廣田三知/ひろたみち)の声がフィーチャーされており、初めて聴く人であれば、驚きを隠せないはずだ。30数年が経過した今、同曲を聴いても、全く古臭さを感じさせず、その狂った感覚がとても新鮮で、初めて聴く者をもきっと虜にするはずだ。

 

いずれにせよ、20代の頃のデヴィッド・ボウイのクリエイティヴィティは、レオナルド・ダ・ヴィンチやオスカー・ワイルドにも通じるくらいの「天才」を感じるのは、俺だけではないはずだ。当時の彼は、或る意味、モーツァルトのそれを越えていたかもしれない。そう、神は細部に宿るのだ。

 

ラフ・シモンズ

 

先述したアルバム『スケアリー・モンスターズ』の5曲目に収録されているのが、他でもない“Fashion”なのだが、本日のテーマ「ファッション」の話に再び戻すが、70年代に、デヴィッド・ボウイがステージで身に纏っていた衣装は、他でもない日本人ファッション・デザイナー<山本寛斎>のそれだったのだ。

 

そして80年代、彼が出演した日本映画が、大島渚監督作『戦場のメリークリスマス』(1983年)であり、90年代ボウイがイマンと再婚し、新婚旅行先に選んだのが、日本の古都「京都」だ。彼の曲の歌詞には、“Japan”という名詞も登場するが、彼は他ならない親日家のロックスターなのだ。そんな日本に多大に影響を受けたボウイが愛したここ日本まで旅したティルダ・スウィントンが先日、知らない世界に出会えたのか、また何を感じたのかまでは正直分からない。ハイダー・アッカーマン然り、ね。なぜなら、アッカーマンの友人のひとりでもあるファッション・デザイナー<ラフ・シモンズ>が崇拝する人物もまた、他でもない<デヴィッド・ボウイ>その人だからだ。

 

デヴィッド・ボウイは音楽を通して、大切なものをすべて教えてくれた。力強い歌詞とアティチュード、独自のヴィジュアル性、美意識、哲学、そしてアートに限界はないということを。こうした要素を備えていたからこそ、ボウイはまったく新しいジェネレーションに到達し、その中心になることができたんだ。

―ラフ・シモンズ

 

ラフ・シモンズに関しては、過去にもこのブログで度々取り上げているが、2009年3月12日付ブログ“We can be Heroes. Just for one day.”では、彼のインタヴュー記事が掲載された『ヴォーグ・オム・ジャパン』に言及した。そして当時のブログで俺は、「1989年にベルリンの壁が崩壊してから、今年で20年目を迎える」と締めくくったが、そう、昔々、ベルリンには東西を隔てる壁が存在したのだ。

 

また2012年4月20日付ブログ“Above the Night”でも、ラフ・シモンズに言及したが、そこで俺は次のように記していた。

 

ラフ・シモンズの<ジル・サンダー>のクリエイティヴ・ディレクター就任は2005年まで遡るが、あれから7年の歳月が経過した今年2月、辞任の発表が行われた。そして今回、ディオールのレディスラインの6代目デザイナーに就任したのが、他でもない<ラフ・シモンズ>その人だったのだ。私的には、ラフ・シモンズというファッション・デザイナーは、ディオール・オムのデザイナーを過去に務めた<エディ・スリマン>同様に、好きな人物なのだ。なぜなら、俺の感性とよく似た、彼らの音楽の趣味や、それぞれ独自の感性に共感を覚えるからだ。

 

楽観主義

 

最後になるが、デヴィッド・ボウイをはじめ、天才たちに共通するのは「楽観主義」だと俺は思う。ノーベル経済学賞受賞者<ダニエル・カーネマン>の言葉を紹介したい。

 
楽観主義はごくありふれた傾向だが、一部の恵まれた人は、図抜けて楽天的である。生まれながらにして楽観バイアスを授かっている人は、「あなたは運がいい」と周りから言われる必要はないだろう。なぜなら、本人がすでにそう思っているからだ。楽天的な性格の多くは親から受け継いだもので、幸福になりやすい気質の一部であり、いつも物事のよい面を見ようとする傾向を備えている。

 

楽天的な人は一般に陽気で楽しく、したがって人気者である。失敗しても立ち直りが早く、困難に直面してもへこたれない。将来の所得について楽観的で、離婚後に再婚する確率が高く、これと見込んだ株に賭ける傾向が強いことが明らかになった。言うまでもなく、楽天的な性格のこうした良さが発揮されるのは、楽観主義がいきすぎでない人、すなわち現実を見失うことなくプラス思考になれる人に限られる。彼らがその地位に就いたのは、自ら困難を探し、リスクをとったからである。彼らには才能があり、しかも幸運だった。

ダニエル・カーネマン著『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』より

 
カーネマンの言うそれは、前々回のブログで取り上げたジョージ・クルーニーをはじめ、ジョン・トラヴォルタミック・ジャガーの生き方にも当てはまるが、デヴィッド・ボウイ(写真上: 映画『地球に落ちて来た男』公開の1976年当時、彼は29歳)はさらにその上を行く<楽観主義者>かもしれない。現在、時計の針は、10月17日(金)の朝6時半を過ぎだが、そんな時間帯に、高級ヘッドフォンを耳にして、モーツァルトではなく、デヴィッド・ボウイの“It's No Game (Part One)”をリピート再生しながら、ブログを書いている俺もまた<楽観主義者>だ。その選曲はアヴァンギャルドで、クレイジーすぎたかもしれない(笑)。とはいえ、70年代、80年代当時のボウイの音楽は、全部とまでは言わないが、完全にぶっ飛んでいるのは確かであり、天才的なひらめきを感じさせる。

 



シルエットや影が革命を見ている
もう天国への自由の階段はありはしない

 

Have a nice weekend!