Shin Tooyamaの独り言 | 写真集団 J/M/P/S

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最近、SNSで沢山の皆さんの写真を拝見させて頂いています。

プロ顔負けな素晴しい写真から、私の見たことのない撮影地、ここ遊びにいきたいな~ぁなんて写真が次から次に流れて来て大変楽しみつつ拝見させております。

個人的な意見なので、賛否両論はあると思いますが、なぜこの写真モノクロ??

カラーだったら素晴しいのになんて写真がチラホラとゆうより、かなり目についてしまっているこの頃です。

私も、仕事はカラー、そしてプライベートの作品作りはモノクロがメインで撮っている一人ですが(笑)

 

少しモノクロ写真について、その立ち位置を再確認してみませんか?

モノクロ写真って何?

カラーに比べてモノクロ写真は、色が無い写真以上です。

ただそれだけで、「カッコイイ」とか「クール」とか、好意的に解釈されてしまうので、オトクな写真であります(笑)

しかし、逆に、昔のモノクロしかなかった時代、カラーが登場した当初はむしろカラーのほうが時代の最先端を行く「オシャレ」だったのではないか?

色の無いモノクロなんてだっせぇぜ!そんなふうに思われていたのではないか?と想像されますが、案外とそうでも無かったのです。

特にプロの写真家の作品作りの分野では、初期のカラーは低性能だったこともあり、かなり懐疑的な見方が大勢を占めていました。

カラーはその場かぎりのインパクトのための広告用。作品作りはモノクロ。そんな認識が一般的だったのです。

そういう認識はウィリアム・エグルストンが1976年に、MoMAでカラーによる初の個展を成功させるまで続きます。

モノクロ=作品、カラー=低俗 こんな印象は、じつは時代の新旧問わず、常に一貫していたのです。

 

その理由について少し考えてみましょう。

カラーは言うまでも無く、現実には色があるからより現実に近いのです。

そういう意味でカラーは「リアル」であり、現実を忠実に再現するという意味で、より具体的です。

たとえば服のディテールを写真で説明するにしても、色という情報がなければ、かなりの程度説明不足になります。

対してモノクロは、色がない分、非現実的です。

結果的に写真は抽象的になり、より、観念性を帯びてきます。

カラー=リアル=具体的=実用的

モノクロ=非リアル=抽象的

そんな図式が見えてきますね。

 

モノクロ写真は好印象な割りに目にする機会が少ないと思いませんか?

それはこのカラー写真の「実用性」に由来する部分が大きいのです。

世の中で目にする写真の多くは、その「実用性」を利用しているにすぎませんので、広告写真にしても報道写真にしても、「ものごと」を「伝える」ために写真を利用しています。

 

そんなモノクロ写真は、純粋に写真を鑑賞するために美術館やギャラリーでしかお目にかかれません、逆にそういう純粋な鑑賞が目的の写真分野では、モノクロはまだまだ使われていす。

 

さてこのデジタルのご時勢。

モノクロ写真は、画像処理やカメラの設定によって、簡単に手に入ります。

しかし、デジカメで撮った画像をただモノクロに変換しても、それはただの「色の無い写真」でしかありません。

たとえば、作品としてのモノクロ写真は、アナログのプロセスによって得られるものが重要な役割を演じます。

たとえばフィルムの粒子感や諧調の出かた、それからバライタペーパーの紙そのものの質感や、乳剤だからこその諧調や質感。

そういったものも含めて「作品」だと私的には思っています。

ただ白と黒であればいいというわけではありません。

また、ノスタルジーな雰囲気が出るのもモノクロ写真ですが、そこにノスタルジーなものが写っているからこそノスタルジーであると言えます。

ただ「なんとなく」だけでモノクロ写真を撮ってしまうと、その表現は根拠の無い弱いものになってしまいます。

モノクロ写真を操り、自由にその表現を楽しむには、その「特徴」と「魅力」を知り、それを生かした撮影をする必要があります。

 

モノクロ写真の魅力とそれを生かした撮り方は存在します。

さて、モノクロ写真は「色が無い」ことが最大のかつ唯一の特徴です。

そのことから導き出される魅力と、それを生かした撮り方を考えてみましょう。

写真が伝えるものは、色と形ですが、色をとったら形だけになります。

そうです、モノクロ写真はカラーに比べて、直球で「形」に目がいきます。

「形」や「ものごとそのもの」を強調したいときに、モノクロを使ってみましょう。

私が、モノクロで作品作りをして見ようと思ったきっかけである写真家「植田正治先生」、先生の写真の醍醐味は、その被写体の「配置」です。

(バライタの手焼きの素晴しさもかなり影響していますが)

モノクロであるとそれがストレートに伝わってきます。

モノクロであるがゆえに写真が抽象化され、フォルム自体にストレートに目が行きます。

もしこれがカラーだったら、生生しすぎて興ざめでしょう。

モノクロであれば「シュールな世界観」ですが、カラーだったら、「なんですか~ぁ」になりかねません。

私のライフワークで撮影している「それぞれの恋人たち」、おそらくカラーであれば、生々しくて人によっては、見てられない具体的な情報が主張してくるはずです。

しかしモノクロ写真は、そういったまわりの具体的な情報をすっ飛ばして、「それそのもの」に目をむけさせられる力があります。

ドキュメンタリー写真でモノクロが効果的でよく使われるのには、こういった理由があります。

 

そして、色が無い」ということは、無彩色、つまり白と黒とその中間のグレーだけの世界です。

そこでは「濃淡」だけで世界が表現されます。

水墨画が墨の濃淡だけで豊かな世界を表現できるのは、足りない情報を見る人が頭の中で埋めてくれるからです。

※情報が少ないほど、見る人の頭の中に豊かなイマジネーションが広がります

これが具体的的かつ細密に決められてしまったら、想像が広がる余地がありません。

そういう意味で、カラーはこっちから向こうに見せる」写真、モノクロは向こうをこっちに引き込む写真、では無いでしょうか?

モノクロをやるからには、見る人を引き込まなくてはいけません。

見る人にイマジネーションを広げてもらうための「省略」であり、そのためのモノクロなのです。

細部を描写することによって、より、印象が「決められて」しまいますが、省くことによって、「決めない」のです。

「決めない」から終わらない。つまり、いつまでも写真に引きつけられ続けるのです。

省略の美学とモノクロは良くマッチします

 

つぎにモノクロの諧調についてですが、ふつう女性の顔といえば、真っ白く飛ばしてしまいたくなるものですが、そうすると目立たせることはできますが、ニュアンスを描くことはできません。

白でもなく黒でもなくグレーは、階調が最もゆたかに表現される領域であり、微妙なニュアンスを表現しやすいのです。

木村伊兵衛先生の撮影が「名人芸」と言われるゆえんはここだと思います。

省略と抽象化、モノクロの諧調とその面の配置、木村伊兵衛先生のモノクロ写真にはいろいろな面白さが写真には詰まっています。

 

今回は、モノクロ写真についてうだうだ独り言を呟きました。

名人には名人たるゆえんがあり、たまたまその時代にモノクロしかなかったからという、消極的な理由によって作品が成立しているわけではありません。

モノクロにはモノクロなりの積極的な意味と価値があるのです。

それを理解して使いこなすことこそが、このデジタル時代には意味のあることだと思います。