平成のコピー史(YELL28年を振り返る) | YELL Onlineβ

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テスト版です

野球がない分、通常のこの時期に比べ時間があるので、家の片付けを進めていますが、過去の制作資料のようなものも出てきたので、この28年の制作方法などを振り返ってみました。
 
創刊は92年秋。
YELLの「原点」であり「お手本」になったのは、昭和の終わり頃法政の学生席で配られていた「ホーセリガリ」でした。
名前の通りガリ版で作られていましたが、今の若い人はガリ版もわからないでしょうね。
 
YELLは創刊時からコピーです。
当時から標準は1枚10円、両面で20円でした。
 
少しでも安くあげたかったので、創刊号は近所のスポーツ用品店の8円コピーを使いました。
 
その後新宿などで少しでも安くコピー出来るところを見つけては行っていました。
なかなか両面コピー出来る機械もなく、脇から差込だったり、片面を印刷してからトレイに入れるなどしていましたっけ。
 
初期によく使っていたのは学生の街・西早稲田のコピー屋です。当時かなり安かったので。早稲田の応援部の下級生と一緒になることもありました。
 
平成初期の六大学野球は、土曜日は12:30試合開始でした。その後12:00になり今は11:00ですが、今と比べ試合開始時間が遅かったので、土曜の朝、西早稲田まで行ってコピーしてから神宮に向かうということが出来ていたのですよね。
 
試合開始時間が早くなり、コピー屋さんが開くのが遅くなったりして、西早稲田には行かなくなり、そのうちあちこちでセルフの5円コピー機が増えたので、そういうところを見つけては行くようになりました。
 
平成初期のコピー機は性能が今ひとつで、文字が明らかに劣化したり、写真などは真っ黒になってしまったものです。

また、コピー機によりクセがあり、普通に原稿を置いても端が切れてしまったりということもあったので、まず試し刷りしてクセをチェックして調整してからコピーをしていました。
 
最近のコピーは性能がいいので、そういう調整もほぼしなくて良くなりましたし、写真も結構きれいにコピー出来ます。
今は写真データを直接原稿に入れられますが、昔は、プリントした写真を縮小コピーしてそれを原稿に貼り付けてコピーしていました。大きさとか原稿に合わせて縮小率を変えていくつかコピーしたりとか。アナログでした(今も人気調査発表号の写真はアナログに切り貼りしていますけど)。
 
ただ写真をコピーしただけだと真っ黒になってしまうので、漫画に使うスクリーントーンを買って、写真にかぶせてコピーしていたものでした。
 
コピー機の変遷に合わせ、使いこなし、またコピーしながら、1枚ずつ折って配布出来るようにするなど、コピーの時だけは手際がよくなりました。
自分のことを「コピー使いの達人」と密かに思っていたりします。

平成の30年間で、技術が進化し、いろいろなものが生まれ、便利に変わって行きました。
こうして振り返ると、平成時代は便利で楽なものを追求し続けてきた時代だった気がします。
 
新型コロナによる今のこの国難は、もう一度立ち止まって不便と向き合え、と天が言っているのかも、などと思ったりする今日この頃です。
 
96年秋の人気調査結果発表号の原紙が出て来ました。
いろんな人がいますね。
 
95年春の写真です。東大間宮選手が首位打者、そして矢野投手のいた法政が優勝。こんな感じで写真をコピーしていました。