以前の記事に書いた通り、高松藩の初代藩主 松平頼重公は、水戸光圀公の同母兄にあたる。
高瀬局(久昌院)は、高松初代藩主頼重公と水戸藩二代藩主光圀公の母だ。
「大日本史」編纂などで名を残す光圀公は言うに及ばず、頼重公も当地にて、江戸に先んじて上水道を整備し、また、各種文化振興に力を注ぐなど、善政を敷いている。
徳川家康の孫というDNAを差し引いても、揃いも揃って賢い子を産んだのだから、さぞかし賢い女性だったのだろう。
けれど、彼女の名前はあまり表舞台に出てこない。
水戸藩の奥向き老女となった母に連られて出入りするうちに初代藩主徳川頼房の寵愛を得ることになったらしいが、彼女が懐妊した時、彼女の母が痛く立腹したともいう。
そんな事情もあったのか、頼房がまだ世継ぎの生まれていない兄たちに気兼ねしたのか(「高松藩記」より)、あるいは身分が低かったためか・・・
いずれにせよ、彼女は、家臣三木之次(仁兵衛)夫妻の協力を得て、秘密裏に2人の男児を生むこととなる。
そんな彼女が生んだ男児が表舞台に出てくるのには、もう一人の女性が大きく関わっている。
英勝院(お梶の方)だ。
家康の側室だが、実子(市姫)が夭折したため、頼房らの養母となった人物だ。
幼少より聡明にして才気煥発で、関ヶ原の戦いにも男装して参加したと言われている。
英勝院の采配もあって、2人の男児は江戸・水戸それぞれの三木邸で無事誕生し、やがて父君(頼房)のお目通しが叶い、水戸藩、高松藩の藩主としての人生を送ることとなる。
実子を幼い頃に亡くした英勝院には、母親としての気持ちが痛いほどわかり、頼房の「堕胎せよ」との命令に追従する(孫を見捨てる)気持ちは到底なかったに違いない。
「高松藩記」には、それまで表舞台に出ることのなかった頼重の存在を幕府に詳らかにした(帰府させた)、英勝院と2代将軍秀忠とのやり取りの記述も見られる。
高瀬局(久昌院)にとって英勝院は義母、姑。
太陽のような強い印象の英勝院と
月のような印象を受ける高瀬局。
2人の間にやり取りはあったのか、あったとしたらどんな会話をしたのか。
文才がある方に2人をテーマにした物語を書いてもらいたいような気がしている。
高瀬局こと久昌院は、1662年11月に水戸藩小石川邸で病のため、夫・頼房(1661年7月没)の後を追うかのように亡くなった。
現在は水戸徳川藩墓所瑞龍山(茨城県常陸太田市)で、夫・頼房の横に葬られている。
けれども、最後まで控えめに、彼女の墓は頼房より一段低いところに並んでいるのだという。
正室でないためとはいえ、頼房には正室がいなかった。
母の帰依した日蓮宗の菩提寺として、光圀は久昌寺(茨城県常陸太田市)を、頼重は高松の地に広昌寺を建立した。
幕末の高松城下の絵図には、その寺「広昌寺」が描かれている。
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(香川県立図書館デジタルライブラリー「高松城下町屋敷割図」より)
けれど第二次世界大戦の高松空襲で市内の大半が焼失してしまい広昌寺も全焼。
かろうじて同地に本堂が再建されたが、今その横を通っても、そこが初代藩主の母の菩提寺であることに気づく人は少ないだろう。
Googleマップの口コミさえ一件もないような小さな寺だ。
けれどその控えめな様も、高瀬局(久昌院)の生き様に重なるように感じないだろうか。
「婦徳アリ。族に睦み、侍婢を遇するに恵和。家に宜しく、室に宜し」
光圀公が母を評した言葉である。