「ここで瞑想をしても、人格はよくなりませんよ」
これは、著者がミャンマーの瞑想センターに訪れた時に、そこに長期滞在していた日本人僧侶から言われた言葉だそうです。
ミャンマーといえばテーラワーダ仏教(上座仏教)として知られており、釈迦の直接の言葉を記録したといわれる最古の経典をもとに、その教えを忠実に守って実践している所です。ここには、瞑想の実践を行なうことによって、頭がよくなったり、人間関係がうまくいくといった「実生活に役に立つ」ことを求めて来る人も多いそうです。もちろん、そうした動機から瞑想を実践することは別に悪いことではありません。
しかし著者によれば、釈迦の教えを直接記録したといわれる『スッタニパータ』や『ダンマパダ』を、余計な先入見を排して素直に読めば、釈迦が直接伝えたという瞑想が「実生活に役に立つ」ものとは、かけ離れたものであると言っています。
しかし著者によれば、釈迦の教えを直接記録したといわれる『スッタニパータ』や『ダンマパダ』を、余計な先入見を排して素直に読めば、釈迦が直接伝えたという瞑想が「実生活に役に立つ」ものとは、かけ離れたものであると言っています。
それでは、釈迦が目指したものとは、どんなものだったのでしょうか。『スッタニパータ』には、修行者に対して次のような実践が求められると述べています。
「解脱・涅槃を一途に希求する者(出家者)たちに対しては、農業であれ商取引であれ、あらゆる労働生産の行為は禁じられる。また、異性に対するおよそあらゆる欲望や思慕の情が、徹底的に否定される。現代風にわかりやすく表現すれば、要するに修行者たちに対して『異性とは目も合わせないニートとなれ』と求めているわけである」
現代の日本人から見れば、とても「人間として正しく生きる道」であるとは考えにくいだろう。つまり、ゴータマ・ブッダの教えというのは、世の流れに真正面から『逆流』することを説くものであるといえます。
現代の日本人から見れば、とても「人間として正しく生きる道」であるとは考えにくいだろう。つまり、ゴータマ・ブッダの教えというのは、世の流れに真正面から『逆流』することを説くものであるといえます。
では、そのような「世の流れに逆らう」実践を行なってまで、彼ら修行者が目指したことは何だったのか。
「ゴータマ・ブッダの教えに従って渇愛を滅尽した修行者は、この世と彼の世をともに捨て去る。この『この世と彼の世をともに捨て去った』境地、すなわち解脱・涅槃の風光こそ、時代や地域がいかに異なろうとも変わらない、仏教の普遍的な価値であるはずであり、それがいかなるものであるかを探求することこそが、仏教理解の、まさにアルファでありオメガであるはずだ」
次に残る問題は、そのような無為の涅槃の覚知が実際に起こるのかどうかということになるだろう。そのことについて著者は、次のように述べています。
「これについてはテーラワーダの瞑想センターで、上座部圏のみならず、世界中から集まった実践者が、『経典のとおりの実践を行なったら、経典のとおりの結果が出ました』と報告している。仏教が2,500年のあいだ存続してきたことを考慮に入れた場合、そのテクストの言葉を無理に『比喩』だと理解しようとするのではなく、『書いてあることを、書いてあるように実践したら、書いてあるとおりのことが起こりました』と率直に報告する人々の証言を重視して解釈することは、十分に『現実的』であり『合理的』なことだと私は思う」
では実践によって悟った後に覚者は、この世界をどのように見ているのか? なぜ彼は解脱の「楽」を独り味わうことに安住せずに、再び「物語の世界」(世間)への介入、つまり衆生に対する仏教の宣布をはじめたのか。興味深いことなので、少し長くなりますが引用させていただきます。
「ならば、彼らは人生の残りをどのように過ごすのか。渇愛を滅尽し解脱に至った者たちは、存在することを『ただ楽しむ』のである。それはもちろん、『欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ』ような、執着によって得られる『楽しみ』ではなく、むしろそこからは完全に離れ、誰のものでもなくなった(公共物としての)現象を観照することによってはじめて知られる『最高の楽 paramam sukham』と言うべきものだ。対象への執着がなく、利益が得られるわけでもなく、必要が満たされるわけでもないが、『ただ楽しい』。そのようなあり方のことを、『遊び』と呼ぶことは許されるだろう。
したがって、彼らの一部が利他行の実践へと踏み出すのも、もちろん『遊び』ということになる。彼らは『必要』だからそれをするわけではないし、『意味がある』からそれをするわけでもない。ただ、眼前の『衆生』と呼ばれる現象は、それが本来『公共物』であることに気づかずに、『それは私のものであり、それは私であって、それは私の我である』と考えて『世界』を形成し、自縄自縛の苦しみに陥っている。解脱者たちも、かつては凡夫であったがゆえに、それが彼らにとって『事実』であり『現実』の苦として作用していることをよく知っているから、それを『ただ助ける』ことにするのである」
そのように「遊び」として「ただ助ける」ということが、捨の態度を根底に有しながら慈・悲・喜の実践を行なうということの内実なのであり、著者は、それがいわゆる「優しさ」と「慈悲」の違いであると述べています。
私はこれまでに仏教の解説書や入門書を数多く読んできました。しかし、この本のようにストレートに「仏教は何を目指しているのか」「悟るとはどういうことか」「悟った後はどうなるのか」などについて知識としてではなく、腑に落ちるようにシンプルに問いかけた本は少ないように思います。私のように、いまだに欲がつくり出す「物語の世界」で盲目的に生活している凡夫にとっては新鮮な内容ばかりでした。
【おすすめ度 ★★】(5つ星評価)