古そうな右書き量水器を発見。小の字が見えるのでどこかからの越境蓋? と思った。
もう少し鮮明な蓋。「小田村」である。
まったく心当たりがないのでネットで検索してみると昭和11年に尼崎市に吸収合併された自治体とのことでした。
そして、止水栓も。
初めて存在を知った小田村の水道について何かわからないかと改めて検索してみるとWeb版尼崎地域史事典『apedia』という立派なWiki式の事典に記述がありました。同事典の「小田村・尼崎市合併問題」という項目によれば昭和6年に当時の尼崎市水道から給水が開始されたとのことです。
昭和6年の給水開始から11年の合併消滅までの間の短い期間に設置された蓋になりますね。
ちなみに、現在の尼崎市の市章(↓)は工業都市の工、ア、マで出来た旧市章に小田村の小を表すための左右の点を昭和11年に加えたものだそうです。 (尼崎市公式HPより)
では、その旧市章は? というと、ありました。「量水器」と「水道止水栓」。これらの蓋が作られたのは合併以前ということになるのですが、見つかった地域は小田村の蓋のある地域だったので合併後間もないころに余った旧市章蓋を設置したのかもしれません。あるいは単純に小田村の蓋が足りずに越境してきたのかもしれません。
別の紋章の蓋もありました。小田村の村章かとも思ったのですが、小田という文字とも関係なさそうでんん~と悩んでいたら、これもネット上に答えが。。。。
実はこの紋章は小田村と同じ兵庫県川辺郡にあった立花村の村章(橘紋)なのだそうです。
この紋章についてまとめた尼崎市の公式HP(尼崎市立地域研究史料館)の記事は柴田保彦さんとおっしゃる方がこの紋章の蓋を豊中市で見つけられたことから調査を開始されたという同氏の研究論文が元になっています。
まさに、戦前の越境蓋の研究。是非 実際の論文も読んでみたいものです。「阪北上水道組合」の蓋などというものも出てきてワクワクします。
記事はこちら→尼崎こんな歴史 > Vol.2(平成14年2月15日) 橘水道の鉄蓋と、街の歴史
明治22年当時の小田村、立花村、尼崎町等の地図 尼崎市は立花村の南部と尼崎町の合併により誕生したそうです。
訂正(2012.11.6)
尼崎市立地域研究史料館から立花村の消滅時期の間違いについてご指摘いただきました。
昭和17年まで存在していたそうです。小田村よりも後に消えた自治体ですからこの蓋は現役時代に越境してきたか、もしくは昭和17年以降、余った蓋がここに来たかのどちらかですね。摩耗が少ないことからすると後者かもしれません。それでも昔のことですが。