京都駅の近くで以前見つけた燈孔っぽいこの蓋(↓↓)。国際日本文化センター古地図データベース
を使って、昔、川でも流れていなかったかなと調べてみることにした。
場所は矢印のあたり。
明治44年の地図を見ると上の図の矢印の右側の川がもっと左(西)側を流れていたことが分かります。
大正2年の地図。上の地図と基本的に同じ。最も、発行年=測量年ではないので大正時代の地図といえども明治期の測量結果に基づいる可能性もおおいにありますが。
大正13年の地図でも西側を流れています。若干、蛇行が変わっていますが。
一方、昭和4年の地図では、昔の流れが細く、現在の流れが太く描かれています。大正末から昭和初期にかけて川の付け変えが行われたようですね。
もう一度現在の地図を見ると昔の流れの跡が道路になっていました。(緑色部分)
暗渠になっていて古蓋が上に乗っていることがあるパターンですね。
結局、燈孔の場所に関する情報は得られませんでしたが、川の付け替えの証拠みたいなものを見ることができました。ちょっとしたブラタモリ気分。
ついでに発見したのが「駅」の表記の変遷。
明治9年「ステーシヨー」ただし、駅舎が完成し鉄道が開業したのは明治10年らしい。
明治18年「ステンシヨン」
明治22年「京都乗車場」
明治42年「京都停車場」
大正2年「京都停車場」
大正13年「京都驛」ようやく駅になりました。
昭和4年「きやうと驛」ひらがなにするとまだきょうとではないんですね。
ちなみにこちらの蓋があった「武者小路」は大昔から存在していた通りのようです。
「むしやのこうち」 元禄九年京都大絵より (元禄九年は1696年)
古地図散歩、眠れない日が続きそうです。