みなさま

こんばんは

 

徳王です

本日は日本史です!

 

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激動の6世紀

大王継承の混乱

背景

(1)武烈天皇死去:継体天皇即位

(2)継体天皇(男大迹王):大伴金村(大連)

 

朝鮮経営の衰退

任那四県割譲事件(512年) ※百済と日本は友好関係にあり、その返礼で仏教や儒教が伝来

背景:高句麗の南下を抑制して百済の立場教化をはかる

内容:大伴金村が任那西部四県を割譲

結果:筑紫国造磐井の乱

 

筑紫国造磐井の乱(527年)

背景:

内容:新羅・磐井vs大和政権(近江毛野・物部麁鹿火)

結果

(1)任那東部征服(562年)

(2)大伴氏失脚

(3)物部氏(軍事):軍事的功績

(4)蘇我氏(財政):財政的功績

 例.三蔵(大蔵・内蔵・斎蔵)・屯倉経営

(5)糟谷屯倉:筑紫君葛子献上

 

崇仏論争(552)

仏教の受容をめぐって蘇我氏と物部氏が争った宗教論争。

背景

(1)仏教伝来:聖明王(百済)→欽明天皇

(2)皇位継承問題:用明天皇死後 

 

内容

(1)蘇我稲目vs物部尾輿 

(2)蘇我馬子(泊瀬部皇子)vs物部守屋(穴穂部皇子)

 

結果

(1)丁未の乱:蘇我馬子→物部守屋滅亡

(2)四天王寺(聖徳太子)・飛鳥寺(蘇我馬子):丁未の乱の戦没者供養

(3)崇峻天皇:蘇我馬子擁立

蘇我氏の専横政治

・592年 崇峻天皇暗殺…東漢直駒の殺害

・592年 推古天皇即位(蘇我馬子擁立)   

Q大和政権が朝鮮半島に進出していた狙いと、6 世紀の朝鮮半島と諸国との関係について述べよ

Aヤマト政権が任那に進出したのは、鉄資源や大陸の先進技術を獲得して、国内支配を 強化するためである。6 世紀前半、百済と結ぶべく、大伴金村が主導して任那西部を同国に割譲して、新羅征討を計画したが、磐井の乱により失敗した。その後、新羅は任那東部を併合し、倭は朝鮮半島における拠点を完全に失った

 

東アジア情勢の変化

隋の統一

時期:581年

都:大興城

建国:楊堅(文帝)

楊堅

科挙:官吏登用試験

背景:異民族王朝の正当性をはかるため門閥貴族政治の独占を打破する必要性があった

内容

結果:儒学の固定化を招く

(f)律令制定:法律(皇帝独裁体制)

 

煬帝

大運河の完成

背景:高句麗遠征

内容:穀倉地帯(江南)と政治地域(華北)を結ぶ

結果:経済の大動脈として商業圏を統一右図 隋代の

 

運河

広通渠(大興城~開封) ※渭水・黄河

永済渠(涿郡~開封) 

通済渠(開封~山陽)※黄河~淮河 

 

遣隋使(小野妹子)派遺:聖徳太子

 

高句麗遠征(612)

背景

(1)東突厥・高句麗挟撃防止

(2)大運河の建設:物資・兵士輸送

内容:第一回~第三回高句麗遠征

   隋(楊堅)vs高句麗(淵蓋蘇文・乙支文徳)

結果:隋滅亡


 

1.飛鳥時代のはじまりと中央集権国家

推古天皇の即位=飛鳥豊浦宮・飛鳥小墾田宮

二頭政治(厩戸王・蘇我馬子(摂政))

国政改革の実施

背景

(1)東アジア国際秩序:隋(対等外交)

(2)大和王権権力確立

 

内容

冠位十二階(603年)

背景:世襲制の打破と姓にとらわれない優秀な採用を行う(門閥打破・人材登用)

内容:能力別人材登用政策

   徳・仁・礼・信・義・智(それぞれ大小2つ)

   紫・青・赤・黄・白・黒(それぞれ濃淡2つ)

結果:姓は氏に与えられて世襲制であったが、冠位は個人に与えられて昇進も可能

 

憲法十七条(604年)…日本で最初の成文法

背景

(1)官僚機構肥大化:官僚(儒教的・仏教的施行細則)

(2)国家人意識高揚:豪族連合政権(豪族対立抑制)

結果

 

(1)天皇中心の中央集権国家体制確立

(2)主権国家形成:東アジア独立国・政治機構確立

(3)島国根性(協調性):共同作業是認・分業体制対応

 

(史料)『日本書紀』

「戊辰、皇太子、親ら肇めて憲法十七条を作りたまう。

 一に日く、和を以て貴しと為し、忤ふること無きを、宗とせよ。

 二に日く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰、万 国の極宗な

 り何の世、何の人か、是の法を貴ばざる。(中略)

 三に日く、詔を承るては必ず謹め。君をば則ち天とす。臣をば則ち地とす。

 五に日く、餐を絶ち欲を棄てて、明らかに訴訟を弁めよ。(中略)

 八に日く、群卿百寮、早く朝りて晏く退でよ。(中略)

 十一に日く、功過を明らかに察て、賞罰必ず当てよ。(中略)

 十二に日く、国司・国造、百姓に斂らざれ。国に二の君非ず。民に両の主無 し。

 十六に日く、民を使う時を以ってするは、古の良き典なり。故、冬の月に間 有らば、

 以って民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑の節なり。民を 使うべからず。

 十七に日く、夫れ事は独り断むべからず。必ず衆と論うべし。(中略)」

①和をもって貴しとなし=豪族の対立抑制

②篤く仏・法・僧を敬え=仏教崇拝

③詔には必ず慎め=天皇への絶対服従・天皇権力の強化

    

国史の編纂

背景:大王の権威を歴史的に証明するため

内容:天皇記・国記(聖徳太子・蘇我馬子)→乙巳の変で焼失

結果:焼失したため、現存せず

③隋との交渉

遣隋使の派遣

背景:

(1)東アジア情勢:高句麗遠征

(2)新羅和平:中国文化摂取・国内中央集権体制確立

  例.新羅討伐(崇峻天皇・聖徳太子・来目皇子)

内容

600年 

(史料)『隋書倭国伝』

「開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、号阿輩鶏弥、使を遣わして闕に詣る。上、所司をして其の風俗を訪わしむ。使者言う、『倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う我が弟に委ねんと』と。高祖日く、『此れ大いに義理無し』と。是に於て訓えて之を改めしむ」

 

607年  

(史料)『隋書倭国伝』

「大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。使者日く、『聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝貢せしめ、兼ねて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ』と。其の国書に日く、『日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々』と。帝之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて日く、『蛮夷の書、無礼なる者有らば、復た以て聞する勿れ』と」

 

①煬帝は対等の国だと主張する倭を高句麗への牽制手段として主権を認めた

②裴世清の返礼使節来日

 

608年 隋の煬帝の元へ小野妹子・高向玄理・南淵請安・旻などを派遣

(史料)『日本書紀』

「辛巳、唐客裴世清、罷り帰る。即ち復た小野妹子臣を以て大使と為し、吉士雄成を小使と為し、福利を通事と為し、唐客に副へて遣す。爰に天皇、唐帝を聘ふ。 其の辞に日く「東天皇、敬しみて西皇帝に白す。…今大礼蘇因高、大礼乎那利等を遣して往でしむ。謹みて白すこと具ならじ』と」

614年:隋の煬帝の元へ犬上御田鋤を派遣(最後の遣隋使)

結果:冊封を受けない国として東アジアにおける日本の地位確立を行った

   留学生が新知識を吸収し、大化の改新の指導原理となった

Q推古朝での政治改革について、冠位十二階の制と憲法十七条に焦点を当て述べよ

A冠位十二階の制は、能力や業績に応じて個人に対して冠位を与えた制度である。姓にとらわれない人材登用と、世襲制の打破を意図した。また官人としての心構えを示し、天皇権威を強調するものとして憲法十七条を制定した。

 

2⃣律令国家への道

1.大化の改新

①東アジア情勢

唐の建国 

時期:618年

 都:長安

建国:李淵(高祖)

・太宗(宰相:房玄齢・杜如晦) 「貞観の治」

(a)玄武門の変(626)

背景:

内容:クーデターで政権奪取

結果:易姓革命に反するため、善政で国内統一をはかることで王朝の正統性をはかろうとした

 

(b)東突厥征服(630):天可汗の称号

※太宗:漢民族と北方民族の共同統治者

 

高宗

(a)西突厥滅亡(657)

(b)百済滅亡(660)

(c)高句麗滅亡(668)

唐の動揺   

則天武后の政治 

(a)周(武周):690年

(b)科挙官僚重用

背景:関隴集団(実力本位)と山東貴族(門閥貴族)の対立

   律令制の拡大で文官の必要性が増大

内容:「五経正義」(孔穎達:太宗)重視

結果:知識階級の教義統一によって儒学解釈は固定化

    門閥貴族の地方左遷による庶民文化の地方波及(貴族社会の衰退)

(c)大雲経寺:鎮護国家思想の具現化 ※国分寺モデル

(d)則天文字 例.徳川光圀 ”圀”

 

中宗:「武韋の禍」

韋后 

玄宗 「開元の治」 

(1)募兵制:傭兵制度

 

安史の乱(755)

背景

(1)宦官政治:楊国忠・楊貴妃

(2)募兵制:異民族軍事力漸強・地方分権化 

 

内容

唐(玄宗→粛宗→代宗)

ウイグル(磨延啜→ 牟羽可汗)

義勇軍(顔真卿)

vs

反乱軍(ソグド人):安禄山・史思明

 

①安禄山:大燕建国(洛陽)・長安占領

②寧国公主(粛宗)降嫁

 

 →東アジアに唐を中心とする中華文化圏の確立

  吐藩の攻撃→日本・新羅・高句麗で中央集権体制が確立

 

国内情勢

推古朝のブレーンたちの相次ぐ死去

舒明天皇(628)

(1)蘇我蝦夷擁立

(2)飛鳥岡本宮

(3)遣唐使(630):犬上御田鋤

(4)百済大寺(640):大官大寺(藤原京:天武天皇)→大安寺(平城京:元明天皇)

皇極天皇(642)

(1)蘇我蝦夷擁立

(2)飛鳥板蓋宮

・蘇我氏の専横

 例.上宮門(邸宅)自称 山背大兄王を自殺(蘇我入鹿)

 

大化の改新の経過

 大化の改新…天皇を中心とする政治刷新の一連の動き

(i)蘇我氏の打倒

645 乙巳の変…蘇我氏を滅亡させる(中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我倉山田石川麻呂)

 

人事の刷新

天皇:孝徳天皇 

皇太子:中大兄皇子 

内臣:中臣鎌足 

左大臣:阿倍内麻呂 

右大臣:蘇我倉山田石川麻呂 

国博士:旻・高向玄理

 

年号の制定と遷都

元号:大化(645~) 

宮都:難波長柄豊碕宮 

※白鷺(650~)

 

諸制度の改革

改新の詔(646)

背景

(1)大化改新:国政改革の基本方針

 

内容

(1)公地公民制:部民制度廃止・食封・布帛

(2)行政制度改革:京師―畿内-国―郡―里

(3)班田収授法:計帳・戸籍を利用

(4)統一的新税制:調・庸

 

※郡評論争

背景:日本書紀(郡)⇔常陸国風土記・藤原宮出土木簡(評)

内容:詔(郡or評)

結果:大宝律令(潤色可能性)

 

(史料)『日本書紀』

「二年春正月甲子朔、賀正の礼畢る。則ち改新の詔を宣べて日く。

 其の一に日く、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民,処々の屯倉、及び別には臣・連・伴造・国造・村首の所有てる部曲の民、処々の田庄を罷めよ、仍りて食封を大夫以上に賜ふこと各差あらむ。隆りては布帛を以て官人、百姓に賜こと差有らむ。

 其の二に日く、初めて京師を修め、畿内国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、及び鈴契を造り、山河を定めよ。(中略)凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、(中略)西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭々波の合坂山より以来を、畿内国とせよ。(下略)

 其の三に日く、初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造る。凡そ五十戸を里と為し、里毎に長一人を置け。戸口を按検し、農桑を課殖し、非違を禁察し、賦役を催駈刷ることを掌れ。若し山谷阻険にして、地遠く人稀なる処には、便に随いて量りて置け。凡そ田は長さ三十、広さ十二歩を段と為し、十段を町とせよ。段の租稲二束二把、町の租稲廿二束とせよ。

 其の四に日く、旧の賦役を罷めて田の調を行ふ。(中略)田一町に絹一丈。(中略)別に戸別に調を収れ。一戸に貲布一丈二尺。(中略)一戸に庸の布一丈二尺、庸の米五斗とす」

 

改新政治の遂行

反対勢力処罰

古人大兄王(645)

蘇我倉山田石川麻呂(649)

有間皇子(658)

 

官人制

冠位制

13階制(647):孝徳天皇

19階制(649):斉明天皇

 

品部廃止

 

大化の薄葬令(646):古墳規格制約

 

支配権拡大

背景:軍事的アピール

内容:蝦夷征伐(日本海側)

渟足柵(647):越後国

磐舟柵(648):越後国

結果:東北南部征服