5/6GW最終の日曜日

思い立ったようにふらっと京都へ
【“日本史舞台の表と裏”】!!-四条河原町
取り合えず阪急で四条河原町に到着


【“日本史舞台の表と裏”】!!-坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地

いわゆる近江屋跡

現在はファミリーマートになってる


ここから少し道中を寄り道

なんやかんやといろいろあるよ
【“日本史舞台の表と裏”】!!-池田屋跡
北上して河原町三条を右へ数十m

龍馬とは直接関係ないが池田屋跡


【“日本史舞台の表と裏”】!!-居酒屋『池田屋』
現在は居酒屋『池田屋』になっている

建物の左下に見えるのが碑です

【“日本史舞台の表と裏”】!!-本能寺
更にやや北西に向かい本能寺へ


【“日本史舞台の表と裏”】!!-角倉了以
京都の豪商、教科書にものってた

高瀬川開削で有名な角倉了以


【“日本史舞台の表と裏”】!!-武市瑞山先生寓居之跡
月形半平太こと武市瑞山寓居跡.。

天誅組で知られる吉村虎太郎も身を寄せてたようだ


【“日本史舞台の表と裏”】!!-佐久間象山・大村益次郎遭難之碑
佐久間象山・大村益次郎遭難之碑

碑であり実際ここで遭難したわけではないみたい



【“日本史舞台の表と裏”】!!-桂小五郎・幾松寓居跡
桂小五郎・幾松寓居跡、今は料亭

京都ならではの間口である



【“日本史舞台の表と裏”】!!-鴨川・三条大橋から
三条大橋からの鴨川

名物の床も見える



【“日本史舞台の表と裏”】!!-高山彦九郎
三条京阪にある

林子平・蒲生君平と並ぶ寛政の三奇人

高山彦九郎の像、皇居(現御所)望拝しているさま



【“日本史舞台の表と裏”】!!-八坂神社
取り合えず八坂さんから円山公園へ



【“日本史舞台の表と裏”】!!-坂本龍馬・中岡慎太郎像
円山公園にある龍馬と中岡慎太郎の像



【“日本史舞台の表と裏”】!!-高台寺庭園
北政所ねね及び新撰組にもゆかりの

高台寺にも登って入館する

素晴らしい庭園


【“日本史舞台の表と裏”】!!-霊山護国神社

高台寺から更に歩き登って

霊山護国神社へ

龍馬など維新の志士達が眠る場所

ここへ来るのは長年の念願ついに…


【“日本史舞台の表と裏”】!!-護国神社から京都展望
さすがにお墓の写真は撮れないので

京都を一望写真


ここから四条京阪まで戻り京阪電車で

伏見、中書島まで移動 寺田屋跡へ

【“日本史舞台の表と裏”】!!-伏見寺田屋近くの竜馬通り

竜馬通りがある
【“日本史舞台の表と裏”】!!-寺田屋

寺田屋到着

【“日本史舞台の表と裏”】!!-寺田屋

拝観時間に間に合わず入れなかったが

一度は訪れてみたい場所だった


今日は一日よう歩いたわ~

【“日本史舞台の表と裏”】!!-沖田総司


この人物は誰かわかりますか? ↑
イメージとはかなり違いますが

“沖田総司”らしい人物の写真です
ただ、やはり時代が時代なので
信憑性は乏しいのですが…
若き天才剣士が労咳により夭逝してしまうという
ドラマ性に富むその生涯から、
そのドラマ性をさらに演出する要素として
多数の作品において“剣にめっぽう強い上に

明るい性格、その反面、病弱で色白の美青年”として

描かれてきました。


【“日本史舞台の表と裏”】!!-沖田総司


これも怪しいですが沖田のイメージ写真です↑


【“日本史舞台の表と裏”】!!-沖田総司


これは沖田の肖像画らしいです↑

この沖田の肖像画は、沖田の姉のミツが

孫・要氏を「総司にどこか似ている」と

称したことから、昭和4年(1929年)に

書かれたものです。

八木家の者や新選組に関わった人物の

証言では、「美青年であった」とは

書き残してはおらず、容姿に関しては、

「ヒラメ顔で笑うと愛嬌があり色黒」

「肩の張り上がった」「猫背」「長身」と

書かれたものが残っています。

どれも沖田総司伝説のイメージとは

違いますね

これも後々の小説家や漫画家達が

作った偶像が人物像を一人歩きさせて

しまっている例ですね



略歴

新選組一番隊隊長、撃剣師範。

天然理心流五代目。

天保15年(1844年)?~

慶応4年(1868年)530日。

白河藩士の子として生まれるが、

のちに脱藩する。
嘉永三年(18509歳で惣次郎は

試衛館に内弟子として預けられ、

10代で免許皆伝、文久元年の

20歳頃には試衛館の塾頭を務める

までになる。

この頃から名を惣次郎から総司とする。

文久3年、近藤はじめ試衛館の面々と

共に浪士組に参加し上洛。

壬生に到着後、近藤一派として

京都残留、新選組にあっても常に筆頭に

名が上げられる腕の持ち主だった。

池田屋事件では近藤ら共に4人で

斬り込み、その戦闘中に喀血。

池田屋から運び出され

慶応31220日に療養のため

隊を離れて大坂へ下り、

慶応4530日、肺患で死去。








平安時代初期、平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の藤原薬子や、その兄である藤原仲成らが処罰された。

…という事件である


がしかし、この乱の名称について、かつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしていたものと考えられて「薬子の変」という名称が一般的であった。しかし、律令制度下の太上天皇制度が王権を分掌していることから事件が起きたという評価がなされるようになり、近頃の教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされるようになっている。


高校時代『薬子の変』ということがらを最初に見た時、名前のインパクトがあり一発で記憶できた。

『平城太上天皇の変』に変わり、なにかしら寂しさも憶える


『薬子の変』の折、あまり血は流れなかった。それは当時の英雄“坂上田村麻呂”が平定に参じ、薬子陣営があきらめたこともあるが、空海が嵯峨天皇に恩赦を直訴したことも理由である。その後、平城天皇に出家を促したのも空海である

その後、平安時代には保元の乱まで律令の基づいた処刑は行なわれなかった


そういう昔と今じゃ呼称の違う日本史的事例も多い

例えば『対華21か条の要求』に関しては現在は『二十一カ条の要求』と記される事が多い

しかし、この例は含みもあって対華21ヶ条要求には正式な名称は存在しない。

したがって、次のような言い方は、いずれも"通称"であり、いずれも間違いとはいえない。

・「対華」、「対支」、「対中」、または入れないか

・「21」、「二十一」、「二一」(横書きならば数字が、縦書きならば漢数字が、それぞれ使われることが多い)

・「か条」、「ヵ条」、「カ条」、「ヶ条」、「ケ条」、「箇条」、「個条」、「条」

・「の要求」、「要求」、または入れないか


今回のブログの焦点 『歴史は未だ動いている』

蟹工船

本屋の前面に押し出されるように並ぶ、

懐かしいこの本


『蟹工船』


今また就職難の時代が訪れ、就職氷河期世代の多くは非正規雇用などの不安定労働者であり、ワーキングプアも少なくない。そういう若者達がこの本に注目し、今また脚光を浴びる『蟹工船』。小林多喜二の世界観が今の若い世代の現状に通じるものがあるんだろう


あらすじ

カムチャツカ沖で蟹を獲りそれを缶詰にまで加工する蟹工船「博光丸」。それは様々な出自の出稼ぎ労働者を安い賃金で酷使し、高価な蟹の缶詰を生産する海上の閉鎖空間であり、彼らは自分達の労働の結果、高価な製品を生み出しているにも関わらず、蟹工船の持ち主である大会社の資本家達に不当に搾取されていた。情け知らずの監督者である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは懲罰という名の暴力や虐待、過労と病気で倒れてゆく。初めのうちは仕方がないとあきらめる者もあったが、やがて労働者らは、人間的な待遇を求めて指導者のもと団結してストライキに踏み切る。しかし、経営者側にある浅川たちがこの事態を容認するはずもなく、帝国海軍が介入して指導者達は検挙される。国民を守ってくれるものと信じていた軍が資本家の側についた事で目覚めた労働者たちは再び闘争に立ち上がった。



小林多喜二


“高橋是清”


数度の大蔵大臣を歴任し、第20代総理大臣。その風貌から『ダルマ蔵相』と呼ばれ親しまれた…高橋財政は有名。 日本のケインズとも言われた…“ケインジアン”の宮澤喜一も小渕内閣の蔵相時、高橋財政を真似た。(“ケインジアン”… イギリスの経済学者ケインズの理論に基づく経済学理論を支持する者を指す)


高橋是清

高橋財政

犬養・斉藤。岡田内閣の蔵相高橋是清の行なった財政政策。金輸出の再禁止を断行し円安に導く低為替政策をとり輸出を増進させた。また軍事費と時局匡救費を二本柱とする予算増額によって景気回復をはかる。財政支出の増大には日銀券発行限度の拡張と国債の日本銀行引受発行で対応。軍事費の膨張も進行したため軍需インフレーション政策の道を開いたとの批判もある。結果インフレを抑えようと軍事予算を縮小しようとしたところ軍部の恨みを買い『2・26事件』で青年将校達に暗殺される。


略歴

安政元年閏727日幕府御用絵師・川村庄右衛門ときんの子として、江戸芝中門前町に生まれた。仙台藩の足軽高橋覚治の養子に出される。その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院大学)にて学び、慶応3年(1867年)仙台藩の命令により、勝海舟の息子・小鹿(ころく)と海外へ留学した。しかし、アメリカでは留学とは程遠く、知らぬまま奴隷契約書にサインさせられ、牧童やぶどう園で奴隷としての生活を強いられる。いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。明治元年に帰国する。帰国後の明治6年サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現・開成高校)の初代校長をも一時務めた。その間、文部省、農商務省(現・経済産業省及び農林水産省)の官僚としても活躍、農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが失敗、再び帰国した後には日本銀行副総裁、総裁などを務め、ロンドン留学時代の人脈を利用して日露戦争の戦時外債の公募などで活躍した。明治38年、貴族院議員に勅選。大正2年、第1次山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。また、政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第4代総裁となった。しかし高橋自身思わぬ総裁就任だったため、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。政友会はその後も迷走し、清浦奎吾超然内閣が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。これに対し高橋率いる政友会は、憲政会および革新倶楽部と護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。これにより清浦内閣打倒に成功する。新たに総理大臣となった憲政会総裁の加藤高明は、高橋を農商務相に任じた。高橋と斎藤実は、ともに滞米経験があり個人的に親しい友人でもあった。しかし両者は悲劇的な最期をむかえる。その後高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、昭和2年に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻礼次郎内閣に代わって組閣した田中義一に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。政友会総裁犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任、金輸出再禁止・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額などで、世界恐慌により混乱する日本経済をいち早く不況から脱出させた。また、五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任(5度目)。また1934年に、共立学校での教え子にあたる岡田啓介首班の岡田内閣にて6度目の大蔵大臣に就任。インフレを抑えるために軍事予算を縮小しようとしたことが軍部の恨みを買い、二・二六事件で赤坂の自宅二階で青年将校達に暗殺された。