【“日本史舞台の表と裏”】!!-沖田総司


この人物は誰かわかりますか? ↑
イメージとはかなり違いますが

“沖田総司”らしい人物の写真です
ただ、やはり時代が時代なので
信憑性は乏しいのですが…
若き天才剣士が労咳により夭逝してしまうという
ドラマ性に富むその生涯から、
そのドラマ性をさらに演出する要素として
多数の作品において“剣にめっぽう強い上に

明るい性格、その反面、病弱で色白の美青年”として

描かれてきました。


【“日本史舞台の表と裏”】!!-沖田総司


これも怪しいですが沖田のイメージ写真です↑


【“日本史舞台の表と裏”】!!-沖田総司


これは沖田の肖像画らしいです↑

この沖田の肖像画は、沖田の姉のミツが

孫・要氏を「総司にどこか似ている」と

称したことから、昭和4年(1929年)に

書かれたものです。

八木家の者や新選組に関わった人物の

証言では、「美青年であった」とは

書き残してはおらず、容姿に関しては、

「ヒラメ顔で笑うと愛嬌があり色黒」

「肩の張り上がった」「猫背」「長身」と

書かれたものが残っています。

どれも沖田総司伝説のイメージとは

違いますね

これも後々の小説家や漫画家達が

作った偶像が人物像を一人歩きさせて

しまっている例ですね



略歴

新選組一番隊隊長、撃剣師範。

天然理心流五代目。

天保15年(1844年)?~

慶応4年(1868年)530日。

白河藩士の子として生まれるが、

のちに脱藩する。
嘉永三年(18509歳で惣次郎は

試衛館に内弟子として預けられ、

10代で免許皆伝、文久元年の

20歳頃には試衛館の塾頭を務める

までになる。

この頃から名を惣次郎から総司とする。

文久3年、近藤はじめ試衛館の面々と

共に浪士組に参加し上洛。

壬生に到着後、近藤一派として

京都残留、新選組にあっても常に筆頭に

名が上げられる腕の持ち主だった。

池田屋事件では近藤ら共に4人で

斬り込み、その戦闘中に喀血。

池田屋から運び出され

慶応31220日に療養のため

隊を離れて大坂へ下り、

慶応4530日、肺患で死去。